ベイビー

パリ、テキサスのベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

パリ、テキサス(1984年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

とても素晴らしい作品でした。

この作品は、三つのパートからなる物語なのですが、その構成がとても秀逸で、パートが変わる度に主人公であるトラヴィスの心の変化がとても上手く表現されています。


ここで予めお伝えしますが、また僕の悪い癖で、作品を観た感想をそのまま伝えたいが為に、あらすじを多分に含ませたダラダラと長いレビューになってしまいました。

まだ今作をご覧になられていない方は、ネタバレになると思いますのでご注意下さい。


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オープニングは渇いた印象。
それはテキサスの荒野とトラヴィスの心。

4年間失踪していたトラヴィスがテキサスで見つかったと、ロサンゼルスの郊外に住む弟のウォルトに連絡が届きます。

ウォルトが現地へ迎えに行くと、トラヴィスは記憶を失っていました。それどころか、誰かががトラヴィスに話かけても何も返事を返さない状態で、意思疎通が全く出来ません。手を焼くウォルトを尻目に、トラヴィスは信念と本能の赴くまま、独り目的地を目指して黙々と歩き出します…

そんな冒頭から始まる物語。その帰宅の道中、今までダンマリだったトラヴィスが、突然ウォルトに一枚の写真を見せながら「パリに行きたい」と言い出します。

そこに写るのは、乾いた広い平地に看板が立てられいる風景。ウォルトが「ここは何処だ?」と尋ねると、トラヴィスは「パリだ」と答えます。ちゃんとアメリカの地図にも載っている、テキサス州にある"パリ"だと言うのです。

普通「パリ」と聞けば、誰もがフランスのパリを思い浮かべますが、この写真に写っているパリとは、テキサスに存在する場所とのこと。

トラヴィスは、その土地をむかし通販で買ったと言い、その場所が自分が生まれたルーツだとも言っています。そう言われてみると、この写真に写る風景はトラヴィスのように見えてしまいます。その何もないカラカラに干上がった大地は、トラヴィスの渇き切った空虚な心に思えてしまいます。

僕もこの話を聞いて初めて「このタイトルの『パリ』って、フランスのパリじゃないんだ」と知りました。そして、テキサスにパリがあるということもこのとき初めて知ります。こうした感覚で作品を観ていると、後にこの「パリ、テキサス」というタイトルがこの物語に掛かる比喩だと分かってきます。

テキサスからロス郊外にあるウォルトの家に着くまでは、トラヴィスの心の渇きを描いた展開です。それをAパートとするならば、家に着き息子のハンターと再会してからの生活は、Bパートと言えるのかも知れません。

冒頭で変人っぷりを披露したトラヴィスは、4年間離ればなれだったハンターとの関係を再構築していく事で、親子の関係を取り戻し、自分を取り戻し、そして失われた記憶を取り戻そうとします。

その回復を応援しながらも、複雑に感じているのが、ウォルトとその妻のアン。この4年間我が子のように育てて来たハンターを手離すのが怖いのです。

でも、やはり一番複雑な心境なのはハンターではないのでしょうか。突然現れた顔も覚えていない父親と、物心ついた時から愛情深く両親として育ててくれた、ウォルトとアンの存在。急にそんな事実を知ることとなるハンターとしては、友達に「本当のパパはどっちなの?」と尋ねられても、返答に困ってしまうのは当然です。

このハンターの"どちらが本当の父親かを答えられない気持ち"を考えると、この状況は「パリ、テキサス」というタイトルが比喩になっていることに気づきます。

フランスの"パリ"と、テキサスの"パリ"。
血の繋がる"親"と、育ててくれた"親"。

これらは共に、どちらが本物で、どちらが偽物という区別するものではありません。どちらも事実で、どちらも現実として存在するものなのです。ハンターに対する友達の質問はこれと同じで、どちらが本当の父親なのかという問いは、どちらが本当のパリなの? というな答えようもない愚問と同じなのです。

次第に心を通わすトラヴィスとハンター。親子の形はそれらしくなっていきますが、それを家族と呼ぶには、いくつかパズルのピースが足りないようです。その一つはもちろん、ハンターの生みの母親であるジェーンです。

トラヴィスはハンターの為、そして自分の心のピースを埋める為に、ウォルトの家を離れジェーンを探すことに専念します。ここからトラヴィスとハンターが、ヒューストンへジェーンを探しにでるCパートへ移り変わります。

ちなみに、トラヴィスがウォルトに家を出ることを告げた場所は、ウォルトの仕事場でもある大型看板を施工する現場です。丁度その現場では、ロサンゼルス・レイダースの広告看板からエヴィアンの看板に貼り替えしている最中でした。このシーンから三つのトラヴィスの心境が見えてきます。

一つは、トラヴィスの心の潤い。
一つは、BパートからCパートへの分岐点。
一つは、トラヴィスとハンターのパズルのピース。

冒頭の渇き切ったイメージのトラヴィスから考えると、ハンターと過ごしたことで、少しは心が潤えたようです。エヴィアンの看板はその状況を表現しているようにも思えます。

そして、そのエヴィアンの看板はクレーンによって貼り替えられている真っ最中です。それは変化を意味すると同時に、看板のパーツはトラヴィスたちの心の隙間を埋めるパズルのピースとしても捉えることができます。

それを示すかのように、エヴィアンの看板が組み上がろうとする瞬間、トラヴィスは「彼女を見つけたいんだ」とウォルトに告げているのです。それはジェーンがパズルの最後のピースだと物語っているように感じられます。

その後、ハンターと共同作業でジェーンを見つけたトラヴィス。後を追うとジェーンは覗き部屋のようなところで働いていることが分かりました。

それを知った夜、トラヴィスは酔い潰れながら、ハンターに自分の父親のことを語り出します。トラヴィスの父親、つまりハンターのお爺さんは昔空想に取り憑かれたと話だします。

母親はごく普通な女性だったのに、父親は頭の中で母を淑女だとし、そのうち母をパリから来た女だと友達に言うようになりました。皆に言っているうちに、いつしかそれが冗談でなくなり、本気で信じはじめてしまったと言うのです。

Aパートでは、"フランスのパリ"と"テキサスのパリ"という二つのパリを用いて、区別のつけようがない現実があることを示唆し、Bパートでは、その比喩を使ってハンターの心理を上手く表現していました。

それで言うとCパートで表現したものは、先程のトラヴィスの父親の話にあった"空想"ということになります。厳密に言えば、"空想"と"現実"の区別がつかなくなったということ。"空想"が"現実"に侵食し、それにより現実が大きく歪められてしまえば、その区別がつかなくなった空想もまた、"現実"の一部として存在するのです。

それを如実に物語るのが、クライマックスとも言える、二度目の覗き部屋での二人の会話です。

トラヴィスの理想を詰め合わせたような明るく家庭的な部屋。そこに居るのは優しく微笑む美しいジェーン。トラヴィスはその理想的な虚構をマジックミラー越しに、暗闇の部屋から見つめています。トラヴィスはその眩い明るさを直視できず、背を背けながらあくまでも客を装い、ガラスの向こうのジェーンに向けて昔話を始めます。

そこで語られたのは、ある男と女の話です。男は若い妻を愛するあまり、とある妄想にかられ、その愛を駄目にしてしまった話。先のトラヴィスの父親のように、ありもしない空想に捉われ、現実に影響を及ぼし、愛を終わらせてしまったのです。

このシーンがなによりも秀逸なのが、その空想と現実との区別ができなくなった話を、マジックミラーを境にした、虚構と現実が混ざり合う部屋の中で語っていることです。

トラヴィスからガラス越しに部屋の中を見れば、理想的な家庭の中に美しい妻のジェーンが居ます。それを今、トラヴィスは暗闇の現実から見ています。

トラヴィスの話を聞くうちに、その話が自分のことだと気付くジェーン。その瞬間からカメラはジェーンの目線になり、明るい部屋から暗闇に居るトラヴィスを探します。その時映し出されたのは、舞台セット裏側で見る書き割りのような、ベニア板と断熱材が剥き出しの壁。それが見えた瞬間、理想に満ちた虚構の部屋は、ジェーンの現実世界へとひっくり返ります。

「虚構」と「現実」

トラヴィスから見た煌びやかな虚構の部屋とジェーンから見る現実的な部屋。こうして見ると、この部屋は同じ空間であるはずなのに、視点を変えるだけで「虚構」と「現実」の二つの顔が現れます。それはトラヴィスが語った「空想」と「現実」の話も同じで、時が経ち今になって当時を見つめれば、空想も現実も関係なく、一つの「真実」だけがそこに残るのです。

そう考えると、トラヴィスの最後の決断の理由も分かる気がします。いつかまた自分が空想に駆られる恐れ、現実から逃げ出したくなる衝動がまた起こらないとも限りません。しかし、今この瞬間、この美しく満たされた現実を閉じ込めて思い出にしてしまえば、この後に描く空想も現実も美しくあり続けると思えたのではないのでしょうか。

この物語の最後は、トラヴィスが二人を見届け、車で走り去る場面で終わります。そのトラヴィスの背後には、終始美しい夕焼けに彩られています。それは昼と夜を緩やかに繋ぎ止める時間です。

二つのパリ
生みの親と育ての親
頭の中の空想とここにある現実

この夕焼けの美しさは、掛け離れた二つを繋ぎ合わせる象徴のように思えます。光と闇を結び付ける美しい時間です…

きっと、あの夕焼けを一日で撮るのは無理ですから、何日もかけてあのマジックアワーを待ち、粘り強く撮影してカットを繋げたんでしょうね。本当に美しい映像です。作品のラストにふさわしい美しさでした。

そういったこだわり抜いたヴィム・ヴェンダース監督の演出。それとしっかりと作品と調和されたライ・クーダー氏のギター音楽。そしてなんと言っても名優ハリー・ディーン・スタントンの素朴な演技とナスターシャ・キンスキーの可愛らしさ。

もう、どれをとっても最高としか言い表せません。本当に素晴らしい作品でした。
ベイビー

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