映画漬廃人伊波興一

ゴモラの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

ゴモラ(2008年製作の映画)
1.4
この防犯カメラが捉えたモニタリングのような画面の連鎖に私たちの瞳がどう震えるというのか?

マッテオ・ガローネ
「ゴモラ」

アッバス・キアロスタミ監督の「ホームワーク」は素晴らしかった。

原一男監督の「ニッポン国VS泉南石綿村」は凄かった。

中田秀夫監督の
「サディスティック&マゾヒスティック 」だって私には充分面白かった。

だがナポリを拠点に活動するマフィア組織(カモッラ)の実態を、防犯カメラのモニタリングのようにしか捉えていない「ゴモラ」の画面に、私たちの瞳がどう震えるというのか?

この監督マッテオ・ガローネの手による大変評判のいい「リアリティー 」や「ドッグマン」を観た方なら、それなりに楽しみながらも察したはずです。

この監督の関心は、被写体そのものよりも着想や編集、そして画像処理の知的な探求に向けられているのだろう、と。

マッテオ・ガローネの狙いは現代イタリアの縮図を視覚化する事にあるのだから、そりゃ当然だろ?と訝る向きもあろうかと思う。

もちろん、私もそこには異論はありません。
そんな映画が存在してもよい、と思います。

少し話が逸れますが以前、是枝裕和監督がテレビのバラエティに出演した時、実際にあった美談のVTRが流れた際に司会者が『監督、こんな話なら映画になるんじゃないですか?』という問いに対し、
『いえ、こんないい話は映画なんかにしないで本当のままにしておくほうがいいと思います』
と、申された時、思わず(さすが!)と、唸ってしまいました。

ある特殊な状況を画面を通して普遍化するのは劇映画、ドキュメンタリー問わず、ありのまま視覚化する事では決してない。

それは心温まる美談であろうが、身の毛がよだつ大惨事であろうが同じ事です。

私たちの瞳が画面を通じて普遍的な何かに触れるという意味は、的確な距離から捉えられた被写体が画面に映された時、私たちに記号的、図式的な解釈を自粛させる事に他なりません。

上記のアッバス・キアロスタミ監督、原一男監督、中田秀夫監督の作品に通底しているのは、(本当らしい嘘)が炸裂しながらも、(嘘らしい本当)が一点の瑕疵も存在しない点です。

実際、「ホームワーク」で詰問されるテヘランの小学校の子供たち、「ニッポン国VS泉南石綿村」で建白書を持って首相官邸前や厚労省前まで詰めよる柚岡一禎さん、「サディスティック&マゾヒスティック 」で、夕映えを全身に受けて止めてインタビューに応じる元女優の小川亜佐美さんらを見てしまえば、かりに映画のタイトルは忘れてしまっても彼らの表情は絶対に忘れるわけがない、と思うのです。

結局何が言いたいのか自分でも分からなくなりそうですから収拾がつかなくなる前に、この「ゴモラ」と明確な一線を画す一本の映画を挙げて結びとしたいと思います。

特殊な世界を描きながら、(普遍の現在)が、いつの時代であろうとも不気味に鳴り響いている映画も世の中には存在するのです。

王兵と書いてワン・ビンと読む作家による
「収容病棟」という映画です。