マサキシンペイ

息もできないのマサキシンペイのレビュー・感想・評価

息もできない(2008年製作の映画)
4.3
監督・脚本・主演、ヤン・イクチュンの鮮烈な長編映画デビュー作。とんでもない才能である。

父の家庭内暴力

歪んで育ちヤクザとして暴力に明け暮れるサンフン

屈服しそうになっている女子高生ヨニ

母と共に逃げ出した少年ヒョンイン

境遇を共にする三人の出会い。


作用と反作用

殴られた頬と同じだけ殴った拳も痛む。
しかし加害者が正当化されるはずがない。
だからこそ、拳の痛みには救いがない。

ネットが世界を繋ぎ個人が簡単に地域も国も飛び越えてしまう時代にあってこそ、家族の話から一向に広がらないこの作品世界の狭さに驚愕する。

家庭の閉鎖空間で生じる虐待は、一般に不正である。しかし、それを不正と糾弾する者は常にその家族の「外側」に居る。
地域、企業、家族。共同体の規律自体の不正を、その共同体の規律からは摘発できないからだ。
つまり、父親の暴行はそれが発生する家庭内では正当化された力であり、それを悪として排除するためには、父親よりもより強い力で、父親を屈服させる必要がある。そして基本的にその力は「外側」にしかない。
したがって虐げられた者は「外側」について学ぶべきだし、だから弱者は習性として、共同体の規律に「外側」の価値観を密輸する、あるいは共同体の実態を「外側」に密告するあらゆる術を身に着けるはずなのだ。全ては「外側」に出るために。
「ここ」ではない「どこか」へ……。

しかし、あまりにも根本的に踏みにじられ心を閉ざしたサンフンは、「外側」の景色について何も知れなかった。その景色とは具体的には、保健所による保護だったのかもしれないし、警察の介入だったのかもしれない。
ただ、サンフンの世界には家族の「外側」など存在せず、父親を止めるために、父親を殴るしか手段がなかった。
「ここ」から、サンフンは出られなかったのだ。


近年において、「外側」に出られない、という感覚は、何か物理的な拘束をするような舞台装置によってか、あるいはファンタジーの世界でしか成立させにくい要素だと思う。「外側」に繋がる方法について簡単に知識を得られる時代だからだ。
にもかかわらず、まさに「息もできない」閉塞感を、リアリズムとして描いている点が今作は優れて特異である。
マサキシンペイ

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