映画おじいさん

当りや大将の映画おじいさんのレビュー・感想・評価

当りや大将(1962年製作の映画)
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ケン・ローチの『家庭生活』が精神疾患の人間を直球で描いた作品とするなら、本作は変化球で描きつつ、それ以上に強烈な印象を残すような映画でした。忘れられなくなるであろう傑作。

釜ヶ崎がえげつないスラム街として実名で舞台となり「この街(の食堂)では焼き鳥が犬だったり、残飯だったりするけど1日100円でお腹いっぱい食べられる」と普通にナレーションされるのは、この時代からこそ出来たこと。
そんな舞台説明的な冒頭部でさえもパンチが強かった。

当たりや大将・長門裕之のことを、”ドブのキリスト”とアダ名される刑事・浜村純が「根は良い人間なんだけど…。この街の人間皆に言えることだが、奴には道徳心が欠けている」と評して、ん?道徳心が欠けているのに良い人間とは一体なんや?と思っていたら、次第にそれが分かってくる…。

手短に言えば、当たりや大将はパッと見は分からないけど明らかに精神疾患を持った人間だということ。
だから健常者(という言い方も何だか酷いけど…)のモノサシでは測れない存在だということに途中で気がついた。

轟夕起子が朝夜なく働いていたのを店の目の前に住んでて知らないはずがないし、それで彼女が8年間もかけてコツコツ貯めた金を中原早苗と神戸で豪遊し一夜で使い果たすなんて道徳心が有る無し以前の問題でしょう。
さらにはそれが悪いことだと1ミリも思っていないとなれば間違いなくメンタルに問題があるとしか思えない。

とにかく、主人公が善人の金を騙し取って豪遊するシークエンスを直球コメディ調で描き(それもかなり長い時間を割いて)、観客の顔も心も痙攣らせる中平康の容赦なさが素晴らし過ぎて、ただただ呆然とするばかり。

轟夕起子が事実上の自殺をしてから、大将が博打公園にブランコを建てると言いだしたりして…はたから見ると更生したようにも見えるけど全くそんなことはない。そもそも更生という概念を当てはめるのが間違っている。

彼女がいつも歌っていた「雪の降る街」を幻聴(←重要)で聞くようになって恐ろしくなり、生前に公園のことを話していたのを思い出して、急にあんなことを言い出したに違いない。これも典型的な症状でしょう。
少なくとも反省からきているものではないはず。彼女の子供(チビカツ)の将来に対する責任も1ミリも感じていないし。

ブランコを作っても山茶花究のとこのチンピラたちにぶっ壊され、また作り直し、またぶっ壊され……これも轟夕起子を弔う執念に思えなくもないけど、私には精神疾患の人特有の執着にしか見えなかった。

そんな当たりや大将のせいで孤児になってしまったのに、彼を慕い、叔父宅から家出してまでも着いて行く6歳のチビカツに色んな意味で涙。頭師佳孝のデビュー作?

晩年は薬物とアルコール中毒でボロボロだったという中平康。このころ既に精神疾患の予備軍だったと勝手に想像すると、スラムよりも何よりもやはりそのことを強く描きたかったのではと思うのは飛躍のし過ぎですかね。
普通(?)のモノサシで測っても意味がないということとか……なんて言ったらいいのか分からんけど…。

あと今回の特集上映パンフレットに「ユーモアたっぷりに謳いあげた人間賛歌」と書いてあったけど、そんなものはどこにも描かれていなかったよ!