NONAME

ファイト・クラブのNONAMEのレビュー・感想・評価

ファイト・クラブ(1999年製作の映画)
4.4
「このクソったれの現実世界で なぜ生きるのか?」。この「実在」とも言えるアンチテーゼをデヴィッド・フィンチャーは今もなお 俺たちに突きつけてくる。

99年に公開された デヴィッド・フィンチャーの真の意味でのバイオレンス映画『ファイト・クラブ』はブラッド・ピットに拳銃を突きつけられた怯えた目をしたエドワード・ノートンが印象的な まるで『スカーフェイス』のアル・パチーノが『ナポレオン・ダイナマイト』のジョン・へダーを追い詰めているような 勇敢だが 少しばかり腰抜け気味のサイコなシーンから幕を開ける。前々作『セブン』の軌道に乗りビッグヒットを狙う映画の幕開けに クライマックスを予知させるシーンを配置するのは 皮肉か 不安か 予言か それとも照れか? もしあなたがそんな風にしか感じないなら まだあなたは映画について 何もわかってない ケツの青い赤ん坊だ。

知っての通り 僕が「輝かしい未来」と呼んでいる先に待っているのは何かと言えば それは「死」だ。我々がどんな充実したライフを送っていたとしても 最後に待っているの 無でしかない。だが そうして真理を前にした時 凡能な連中や嘘つき達は そうした真理に目をつぶり 輝かしい未来を祝福する映画を作ったり そうした真理に打ちひしがれた 死への不安や恐怖を描こうとする。だが 本当の映画のアウトサイダー達は 違う。
本当の真実だけを暴く映画の主人公達は その最後に向かって 終わりに向かって ゼロに向かって 勇敢に突き進んでいく 自分自身に降りかかるすべての悲劇を笑い飛ばし すべての不条理を祝福しながら 生を謳歌するのだ。もうこの映画の冒頭のワンシーンだけで デヴィッド・フィンチャーが映画の神に選ばれた存在だということがわかるだろう。おそらく この映画を決定づける劇中盤の(『ベイビー・ドライバー』でも引用された)名セリフ 「利口でいても何の解決にもならないぜ」「俺はこう言いたい。進化しようぜ」という言葉が放たれた瞬間に沸き起こる まるで自分が不死身の存在であるかのような高揚感。デヴィッド・フィンチャーいや タイラー・ダーデンには 「そんなの知ったこっちゃねぇ 俺は勝手に楽しむぜ」という 本物の映画だけが持つ 力への意志 ニヒリズムを舐めつくし 亭楽主義を骨の髄まで味わいつくした果ての 湧き上がる力への意志と貧欲なまでの生への渇望がある。

さて 本作『ファイト・クラブ』は フィンチャー自身が感じている もはや95年に公開された『ゾディアック』の前身ともいえる猟奇悪漢サイコ・ムービー『セブン』までのフィンチャーではいられないという変革の意志でもって 以前に比べると 格段に映画性を拡げた作品に仕上がった。特に 隠し味程度にハードディスク・カメラによる撮影やCGによるサブリミナル効果を劇中に数箇所忍ばせることによって これまで監督が得意としてきた80年代風サイコパス・ホラーをよりモダンな感覚でアップデイトさせた ヒプノティック的なシーンが目立つようになっている。ただ勿論 これまでのフィンチャーの得意とする神経を衰弱させるような猟奇感覚を使った 『ロスト・ハイウェイ』と『スキャナーズ』との間に生まれた私生児のような どこか斜に構えた暴力描写もある。特に オープニングやエンディングの場面は 間違いなくフィンチャーのクラッシックなシーンのひとつだろう。

また 今 ナンセンスな演出遊びにかけては右に出る者はいないデヴィッド・フィンチャーの表現は ここでも奮いまくっている。そして 各場面の脚色に共通しているのは 人を食ったようなキッチュさ ナンセンスで シュールなはぐらかし そして あらゆる権威的なものに対する嫌悪感や苛立ちの感覚だ。同時に それは リック・デッカード/マックス・ロカタンスキー/仁さん/トラヴィス・ビックル/アレックス・デラージ/コワルスキー/ハリー・キャラハン/フランケンシュタイン/トニー・モンタナ/ウィンスロウ・リーチ/スネーク・プリスケン/ブルース・リー かつてのアウトサイダー達が動きだすモチベーションに不可欠だった要素に他ならない。彼らは 誰よりも先に裸の王様を発見して すかさずそいつの揚げ足を取り 容赦ない悪意でもって 嘲笑った。そうした痛快なピカレスクっぷりを ここでのタイラー・ダーデンは確かに受け継いでいる。

フィンチャーが描く容赦ない悪意と嘲笑 それと裏腹の自己嫌悪。これは乱暴に言うと つまり スタンリー・キューブリックだ。フィンチャーが描くあけすけなまでの自己告白と それを煙に巻く手の込んだはぐらかし これは簡単に言うと つまり マーティン・スコセッシだ。そして フィンチャーが描く ビルが爆発し「反資本主義」へと高速でブレイクスルーしていく感覚。これは 臆面もなく言うと 例のしくじっちまった連中 あの死に損ないポール・ヴァーホーヴェンだ。

デヴィッド・フィンチャーは この映画によって 今世紀のリンチであり スコセッシであり ヴァーホーヴェンであり 死なない伝説であることを証明してみせた。まあ もしそんな退屈なものに価値があればの話だが ここにこそ 「新しき日本映画の目指す道と光」とやらがある。まあ でも そんなこと ホントどーでもいいけどな。邦画がどーのこーのなんて 知ったこっちゃねーつの。楽しけりゃ いいんだっつーの。俺が感動するのは 『ファイト・クラブ』みたいなホンモノだけだって。だからこそエンディングで流れるピクシーズの“ホエア イズ マイ マインド”でアガるんじゃんか。こんな風に不惑なオヤジに 大ボラを吹かせてくれる映画に出会ったことに 心の底から感謝してみよう。「さあ 行け。君の人生を生きろ。死ぬ気でやればなんだってできる」。You're not your job‼︎




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