決して見たくない。
日常、目に入ることがない、そして目に入らないようにしている光景がある。
その光景の一つを四角く切り取り、目の前にそっと差し出す。映画が担わなくてはならない役割の一つを、この作品はシンプルに提示する。
この映画から導き出される問題提起はいくつもある。しかし、ここに描かれているのは問題そのものではなく、あくまで「生活」だ。導き出すのはあくまで我々である。
罪深い存在である母親。けい子のバックボーンは男女関係以外描かれることがない。
これは個人の責任問題?貧困の連鎖?コミュニティの不在?彼女においてもなお責められるべき対象なのだろうか、ということも含めて深く考えさせられる。余計な講釈がないのでより想像の幅が広がる。
また驚かされるのはこの作品が、ある一つの生活姿のシンプルな提示でありながら、非常に上質な劇映画にもなっているというところ。
本心を語ることの少ない登場人物の内面を、「手」が雄弁に伝える。せわしなくものをさする手、缶ジュースを宙に放っては受け取る手、そして動かなくなった手。
また、カメラはたわいもない遊びに興ずることで、時間を潰す子供達を度々捉える。映像として見せることができないエモーショナルな部分を、子供たちのこうした運動から見て取ることができる。
これは素晴らしい映画だとか、スコアが何点だとか言うことも憚られるような、なんとなく忌避感の漂う作品ではあるが、色々な意味で名作だと思う。
実際こんな映画ばかりだったら、正直気が滅入ってしまう。だけど、これは間違いなく映画に与えられたタスクの一つであり、宿命だと思う。
ネタバレ↓
「私は幸せになっちゃいけないの?」
何も返さない明。
言い返さないこの1人の少年の心情を察して、心が苦しくなる。
代わりに心の中で言い返してみるが、そんな言い返しなど彼の心情からしたらとても浅はかなものなのだろう。
「今朝ゆきのこと触ってみたら冷たくて気持ち悪かった。
なんかそれがすごく…
なんかすごく…」
今まで所在無げに弄っていた手は、ここで死の質感を伝える。
その瞬間も、亡骸そのものも大写しにすることなく、手の感触で伝えられる死の実感。
手の映画のラストとしては出来過ぎなくらいの切れ味である。