つのつの

気狂いピエロのつのつののレビュー・感想・評価

気狂いピエロ(1965年製作の映画)
3.9
【エモーションvs気狂いピエロ】
世俗を馬鹿にし本や映画を「高尚」なものだと思っている、そのくせすぐに永遠の愛を乞うロマンチストでもある男フェルディナン。
そんな彼とは対照的に、世俗的な文化を愛し活発で感情的なマリアンヌ。
この二人のがすれ違ってしまう最大の原因は、マリアンヌは現実の誰かを本気で愛せるけれどフェルディナンは理想や幻想で作り上げた女しか愛せない点だ。
つまりフェルディナンは現実を見れないダメ男ということ。
彼が見れないのは女性だけではない。彼が見下す「世俗的な文化」も、結局は彼の偏見によるものだ。
そんな勝手に作り上げた幻想からどんどん自分の殻に閉じこもっていく彼の間抜けさはまさに「気狂いピエロ」。
ここで重要なのは彼がオタクだからモテないのではないということ。
彼のオタク性をより強調していたら映画オタクである観客達もまだ安心できたかもしれない。
でもそんな甘い話はオープニングのパーティー会場にいたサミュエルフラーの台詞により早くも打ち砕かれる。
彼が映画について語る「エモーション」とは、フェルディナンに一番欠けているものだ。
言い換えれば映画を作り人、映画が好きな人でもちゃんと「エモーショナル」な人間は存在するということだ。
つまり、幻想しか愛せないフェルディナン、そして我々観客の問題点は映画や本のオタクである点ではない。
そんな彼が夢見た「世俗からの脱却」をついに成し遂げたにもかかわらず、マリアンヌという巨大な「現実」に傷つき、誰にも届かない叫びをあげる姿がとても憐れだ。

一つ面白いのは、このフェルディナンのエモーションとはかけ離れた姿勢がそのまま本作のゴダールの演出に表れている点。
本作は一応は犯罪サスペンスアクションというジャンルムービーの体を取っているのに、その手の作品にあるような興奮や緊張感は皆無だ。
その代わりにわけのわからない引用のパッチワークが全編を覆い尽くす。
このゴダールの作家性を高く評価するシネフィル映画評論家の方々が数多くいるし、恐らくはそれも間違ってはいないだろう。
けれども本作の大部分を占めるのは政治的な暗喩ではなく、根暗な男と女の騒々しい口喧嘩である。
その観点に立つと、確立された知的評価の裏側に隠されたエモーションに振り切れないゴダールの素顔が見えてくる。
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