シゲーニョ

イースタン・プロミスのシゲーニョのレビュー・感想・評価

イースタン・プロミス(2007年製作の映画)
4.0
クローネンバーグは「現実」と「幻想」の境界を彷徨うことによって、肉体や精神がグロテスクに「変容」する様を好んで描いてきた。
そのため本作と前作「ヒストリー・オブ・バイオレンス(05年)」が家族や黒社会といったリアリスティックな題材のため、一見、「宗旨替えか!」と思われるが、よ〜く観てみるとそんなに変わったわけでも無い・・・。

劇中、タチアナの日記、そこに書かれた内容が彼女のモノローグによって幾度もインサートされることで見えてくるのだが、本作における現実とは貧窮した祖国に対する「喪失感」、幻想は新天地で自由に生きたいと思う「願望」である。

(但し、ナオミ・ワッツ演じる主人公アンナの場合、「喪失感」はアフリカ系移民の血を引く恋人との別離、「願望」は親と死に別れた他人の赤子を自分の子供のように育てたい欲念から生じたモノとなる)

しかし、その幻想が「壮絶な暴力」という(新たな)現実によって打ち砕かれる「入れ子構造」になってしまうわけだが・・・。

現実と幻想のギャップに苛まれたタチアナは、肉体の「変容」を来す。
僅か14歳にしてレイプされた末、子供を宿し死産してしまうのだ。

しかし、ヴィゴ・モーテンセン演じるもう一人の主人公ニコライは、そんなギャップを屁とも思っていない。というか、善と悪とでの人格の切り替え(=精神の変容)を平然とシフトチェンジしているのだ。
(前作「ヒストリー〜」の主人公も一切の迷いが無い。唯一の悩みが、殺し屋だった過去を家族が受け入れてくれるかどうかだけ!)

死体の解体を表情ひとつ変えず手際よく行い、ベロで煙草の火を消す変態ぶりを見せたかと思えば、バイクが故障して困るアンナを「クリスマスプレゼントだから」とハニカミながら車で送る優しさを見せる。
さらには、顔に唾をかけたアンナの伯父に、人差し指と中指を首に当て「今度やったら喉をカッ切るぞ!」と無言の脅しをかけるも、命を狙われていると知るや、ファーストクラスでスコットランドに逃がしてやる紳士ぶり(笑)。

なので、初見時、アンナの最後のセリフ「あなたは誰なの?」にマジで同調したくなった・・・。

ニコライの行動原理・意思決定の基となったのは、その境涯にあると思えてならない。

劇中「俺は15歳で死んだ。それから一切の感情を捨てた」と言っているように、幼少時に父が反逆罪で処され、以後多くの罪を重ね牢獄とシャバを往復する生活を続けるうちに、国家や組織に対する忠誠心や依存心、そして(一般的な)良心など、生き抜く上で価値がないと思い知ったのであろう。

だからキリルの身代わりとなって殺されかけても、罠をかけたファミリーに恨み節を吐かないし、ボスが捕まり一件落着となってもFSBには戻らずヤクザの跡目を継ぐことを選ぶ。

本作は「ミイラ取りがミイラになる話」では無いと思う。

いつの間にか悪徳の世界に耽溺し逃げ出せなくなった男の悲哀を描いたわけでは無く、「現実」と「幻想」の境界を超えて、再生し続ける男の話なのではないだろうか。

組織の一員としての証「星印のタトゥー」を膝に彫りこまれる場面。
膝のタトゥーは「何者にも跪かない」という意味らしい。
これはニコライの肉体の「変容」を表す重要なシーンだが、ヴィゴはウオッカ片手にソファーにもたれかかり、終始「内面の読めない顔芸」を見せる。この時去来するのは「また一つフェーズを上げたか」ぐらいの意識しかないのだろう。

彼にとっては、ヤクザも警察も国家すらも関係なく後戻りすることなくその場で最適な自分へと、肉体と精神が「変容」さえすればよいのだ。

但し・・・

本作DVDのメイキングで、
クローネンバーグが「観客に観た後も消化しきれない映画を作りたかった」と言っているので、ここ迄の長文・乱文は筆者の個人的「幻想」ということで、お許し願いたい・・・。