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マイケル・ジャクソン THIS IS ITのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

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【カール・W・ハート著『マイケル・ジャクソン:ザ・キング・オブ・ポップ』の私訳】

¶① マイケル・ジョセフ・ジャクソンは1958年8月29日にインディアナ州ゲイリーで生まれた。ゲイリーは、イリノイ州シカゴの近郊で、インディアナ州の北西の隅にある貧しい工業都市である。ゲイリーは、米国の多くの都市が抱えているのと同じ問題を抱えていたし、そして今もなお抱えている。すなわち、高い失業率、ギャング、ドラック、そして犯罪である。ゲイリーの人々は仕事を持つことができれば幸運であった。多くの人が、ミシガン湖の南岸沿いの製鉄所で働いていた。昼も夜もずっと、工場からの煙は空気にひどい臭いを与えた。しかし、それは仕事の匂いだったので、誰も文句を言わなかった。

¶②ゲイリーの通りには小さな一家族居住用の住宅が並んでいた。その近所は、日中は静かだったが、夜は危険であった。暗くなった後、ゲイリーのメインストリートは夜遊びで活気づいた。「シンシティ(罪の街)」というのが、人々がゲイリーを呼んだ呼称であった。彼らがその名前を付けたのは、ゲイリーが、シカゴやインディアナの他の地域から、人々が地元ではできないようなことをするためにやってくる場所だったからである。「シンシティ」の明るい光からそう遠くないジャクソンストリートの2300番地には、ジョー・ジャクソンとキャサリン・ジャクソンが住んでいた。


¶③ジョー・ジャクソンが楽な生活を送ったことはなかった。彼はアーカンソー州で生まれた。両親が離婚したとき、彼は父親と一緒にカリフォルニア州オークランドに引っ越した。彼の父親は、自分の子供にも生徒にも平等に言うことを聞かせるような、学校の先生であった。ジョーは父親から重要な教訓を学んだ。すなわち、生き残れるかどうかは規律と勤勉にかかっているということを学んだのである。彼は厳格で、勤勉な男になった。


¶④ 彼の父親が再婚した時、ジョーは彼の母親と一緒に住むために、シカゴの東に引っ越した。彼は高校を辞め、少しの間、ボクサーになった。それからほどなくして、彼はキャサリン・スクルーズに出会った。彼らはそれから半年後の1949年の11月に結婚した。


¶⑤ ジョーは厳しかったがキャサリンは温和で愛に溢れていた。彼女は敬虔なクリスチャンであった。マイケルはのちに語ったところによると、母親はマイケルに、人生で最も大切なものは親切心や愛、他者に対する思いやりであるということを教えたそうだ。


¶⑥ ジョーは宗教に興味がなかった。ジョーは宗教はつまらないと言っていたのである。しかし、ジョーとキャサリンは音楽に対する強い愛を共有していた。ジョーには、1950年代に鉄鋼所での仕事があった。夜になると彼はザ・ファルコンズと呼ばれるバンドでギターを弾いていた。そのバンドは、ゲイリーのバーやナイトクラブで小さな成功をおさめていた。ジョーは、工場での仕事を辞めてフルタイムのミュージシャンになることを望んでいた。



¶⑦ ジャクソン通りのジャクソン家は、マイケルが産まれる前から大家族だった。2人の姉の、モーリーン(レビー)とラ・トーヤ、それから4人の兄の、ジャッキー、ティト、ジャーメイン、そしてマーロンに、マイケルが加わった。そこへさらに、弟のランディーと、妹のジャネットがマイケルの後に産まれた。


¶⑧ 9人の子供で、ジャクソン家は込み合っていた。マイケルは後に「ゲイリーにあった僕たちの家族の家は小さくて、ほんとに3部屋しか無かったけど、当時は僕にとって、もっと広く思えた。玄関のドアから五歩で、奥に着いてしまう。ガレージ同然の大きさだったけど、そこに住んでいた時は、僕たち子供にとってはそれでよかったんだ。」と、当時を振り返った。


¶⑨ 11人家族にとって、2つの寝室は十分ではなかった。ジョーとキャサリンは1つの寝室を共有していた。男の子たちはもう1つの寝室の、3段ベッドで寝ていた。ティトとジャッキーは1番上に寝て、マーロンとマイケルは真ん中で寝て、そしてジャーメインは1番下で寝ていた。女の子たちはリビングのソファーで寝ていた。後に、ランディーが産まれた時には、彼はまた別のソファーで寝た。冬には、家族は暖を取るために、キッチンのストーブの周りに座って、多くの時間を過ごしたのである。


¶⑩ ゲイリーで1960年代に家族を養うことはただでさえ難しかった。しかし、9人の子供たちがいる家族を、ジョーの僅かな給料で養うことは、よりいっそう難しかった。ジョーは週にたった65ドル程しか稼いでいなかったのである。ジャクソン家は支出に細心の注意を払うようになった。キャサリンは服を救世軍で買うか、自身で作った。食事はとても質素で、スープ、ボローニャサンドイッチ、マカロニ、そしてチーズとスパゲッティだった。


¶⑪ ジョーの家族は、彼の音楽家としての経歴が成長するよりも素早く成長した。だから、彼はフルタイムのプロミュージシャンになるという夢を諦めなければならなかった。しかし、彼はギターを取っておいて、それでも時々はバンドと一緒に演奏した。彼らが演奏した音楽のほとんどは、当時の有名な黒人音楽家、例えばリトル・リチャード、チャック・ベリー、オーティス・レディング、そしてジェームス・ブラウンによるものだった。


¶⑫ ジョーの3人の最も年上の息子たち、つまり、ジャッキー、ティト、そしてジャーメインは、ザ・ファルコンズが演奏するのを見るのが大好きだった。ときどきジョーがバンドと練習をしていない時には、ジョーは、キャサリンが家族を伝統的な歌を歌うのに導くのに合わせてギターを演奏した。キャサリンは彼女の子供たちがどれほど上手く歌えるのかということに喜びを感じていたし、マイケルが子供のときでさえ、彼女はマイケルが華麗に動けるということに気づいていた。ごく幼少期から、子供達は音楽に囲まれていたのである。彼らの成功はここから育った。「ジャクソン5は、こういう慣習から生まれたんだ」と、後にマイケルは語った。




¶⑬ ジョーは彼の子供たちに、厳しい規則を作った。最も重要な規則のひとつは、「俺のギターに触れるな」というものであった。しかし時々、キャサリンがキッチンで忙しい時、ティトは彼の寝室にギターを持って行った。そこで彼はラジオで流れていたどんな曲とも、一緒に合わせてギターを弾く練習をした。彼が弾いている間、ジャッキーとジャーメインは歌った。


¶⑭ マイケルは時々、ティトとジャーメインとジャッキーがギターを弾き歌っているのを見ていた。ある日、キャサリンは彼女の息子たちがジョーのギターを携えているのを見つけた。彼女は、もし彼らがギターの扱いに気をつけると約束するなら、ジョーに告げ口しないと言った。彼女は子供たちが音楽に興味を持っていること、そして、外でトラブルになっていないことが嬉しかったのである。そして、キャサリンが、息子たちにジョーのギターで遊び続けるのを許したのには、もう一つの理由があった。「私はやめてほしくなかったのよ」と彼女はあとになって説明した。「なぜなら、私はそこに大きな才能を見ていたから。」と。


¶⑮ ある日、ティトがギターを弾いていると、ギターの弦が一本壊れてしまった。ジョーは仕事から家に帰ってきて、壊れた弦を見ると、息子たちにそれについて尋ねた。初めは、息子らはその壊れた弦について、何も知らないと言った。しかし、ジョーは彼らを信じなかった。というのも、彼は真実を知っていたのだ。ジョーはとても腹を立てたのでティトは泣き出してしまった。その後、ジョーは落ち着き、男の子たちの部屋に入っていった。ティトはまだベッドの上で泣いていた。ティトは父に、「あのね、僕はそのギターを弾けるんだ。ほんとにできるんだよ。」と告げた。


¶⑯ジョーはそのギターをティトに手渡した。「いいだろう。何が弾けるのか見せてみろ」と言った。ティトは弾き始めた。ジャッキーとジャーメインがやってきて一緒に歌った。ジョーは息を呑んだ。ジョーは息子たちにこれほどまでの音楽的才能があるとは気づいていなかったのだ。その日、ジョーはあることを思いついた。彼には、そのアイデアが、彼と彼の家族をどんな所へと連れて行くのか、想像もつかなかった。


¶⑰その翌日、ジョーは普段通りの時間に帰ってこなかった。キャサリンは心配になり始めた。やっとドアを開けて帰ってきたとき、彼は驚くべきプレゼントを持っていた。それはティトのための、ピカピカの赤いギターだった。ジョーはザ・ファルコンズの仲間と共に過ごす時間を減らし、息子たちに音楽を教える事により多くの時間を費やすようになった。彼は家にもっと多くの楽器を持ってきて、ファミリーバンドを結成することに尽力した。ティトとジャッキーはギターを弾き、ジャーメインは歌い、モーリーンとラ・トーヤはピアノとクラリネットを演奏した。時々、マイケルもその楽しみに参加した。マイケルは踊り、まだ幼な過ぎて理解できない言葉で歌った。


¶⑱キャサリンは家族が一緒になって楽しく過ごしているのが嬉しかった。しかし、彼女はジョーが楽器に費やしていたお金が心配だった。そのお金は、彼らが食べ物や洋服を買うのに必要なお金だったのだ。時々ジョーとキャサリンは口論した。そのような揉め事では、ジョーがいつも勝った。ジョーは、ジャクソン家のファミリーバンドを作るという夢を断固として諦めなかった。夫は決断をしたら、もう絶対に考えを曲げない人であるということをキャサリンは分かっていた。
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