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エレファントのInSituのネタバレレビュー・内容・結末

エレファント(2003年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

再見。ちょっと真面目にレビューしてみます。

<長い前置き>
ガチガチなインディー映画出身のガス・ヴァン・サントは96年、"グッド・ウィル・ハンティング"にて、一躍売れっ子監督の仲間入り。"サイコ"にて一度コケるも、"小説家を見つけたら"である程度の評価を集め、復帰した。次作への期待を寄せるファンも多かったろう。しかし彼が次に撮った作品は、その期待の五割を裏切り、四割を置いてけぼりにし、一割を期待以上のものにした。02年公開の"gerry"は、二人の男が、ただただ砂漠を歩き続ける、 、 、それだけの映画である。公開当初の彼に向けられた視線は、さながらあの頃のホアキン・フェニックスのように冷たいことだったろう。商業映画的な見所は一つもないし、彼の初期のポートランド三部作のような、インディー映画的な見所もない。しかし観る価値のない映画かと問われたら...。
公開当時の批評家のレビューの一覧を見ていると、やはり酷評だらけだが、中には舌を巻いて絶賛しているクリティックもちらほらとある。The A.V. Clubに至っては満点評価だ。このように、分かる人には分かっていた彼のニュータイプな手法は、次作"エレファント"で、どの批評家達も彼の手法の意図に気付き、度肝を抜かれることになる。

<作品概要>
この映画は、コロンバイン高校銃乱射事件をテーマに据えています。一つの事件。非情な惨劇として、今も人々の脳裏の奥底に焼き付いている"事件"です。ヴァン・サントはマイケル・ムーアとは違い、この事件を"日々の日常の中で起こった惨劇"として描きました。このスタンスは、"この世界の片隅に"の片渕須直監督、また原作者であるこうの史代さんの手法と重なる箇所があります。事件や記録として歴史を扱うことはせず、"日々"として歴史を扱う。とても大事な行為ですが、忘れがちな行為でもあります。ヴァン・サントはその日々のリアリティを更に高める為に、幾つかのキーワードだけを定め、それ以外は全て俳優のアドリブだけで台詞を構築するという、極めて即興的な手法を採用しました。また大人役の俳優陣の殆ど、生徒役に至っては全て、オーディションで選ばれたアマチュアの俳優、または素人を起用し、中盤までに垣間見える幾つかのエピソードは、その俳優自身が実際に体験した出来事であり、役名も全て俳優の本名で構成されています。監督が如何にリアリズムを欲していたのか、その本気度が伺えると共に、前作gerryにもあった彼の思惑が、更にパワーアップしていることも分かります。

<元ネタの存在>
この映画にはオマージュ元、いわゆる元ネタが存在します。アラン・クラークが製作した89年の短編TV映画で、北アイルランド紛争を背景に作られています。題名は"エレファント"。同じタイトルにしたのは、この映画に対する敬意と、クラークとヴァン・サントのアプローチ法に共通点があったからだそうです(ヴァン・サント本人談)。登場人物の歩くバックショットが多いのも、クラーク版エレファントからの影響です。クラーク版エレファントは、ジャーナリズムが蔓延し切った現代社会を非難するかのように、登場人物たちの過去、性格、その他諸々の、製作陣にとって都合の良い状況説明を全て省略しています。省いた結果として映画に残ったものは、

若者が銃を持ち、目的地まで歩き、到着し、その場にいる標的を銃で射殺し、その場を後にする。この一連の動作をパート毎に分けて繰り返し、ラストのパートで、今までの一連の動作とは逆説的なアクションが起こり、映画は終わる。

この文字そのままの概要、それのみです。この文字以外のものは何も含まれていません。こうすることにより、クラークは"事件"、"記録"といった言葉では到底表すことの出来ない、起こった惨状の残虐さと、その惨状の発端が、如何に無意味なものだったのかを描くことに成功しました。ヴァン・サント版エレファントはどうでしょうか?

<作品の解読>
この作品におけるヴァン・サント監督の主張とは、事件をただ事件として扱う行為に対する、優しくもパンチの効いたクエスチョンマークであると解読します。コロンバイン銃乱射事件が起こった際、メディアはその原因について激しく論議を行いました。銃規制、虐め、高校の教育制度、事件前後の警察の不当な対応、加害者の一人の遺体から検出された抗うつ剤の影響、そればかりが話題に立ち、誰もが加害者、被害者を"事件の一欠片"として扱い、誰もが彼らを"等身大の一人の人間"として扱わずにいました。"ボウリング・フォー・コロンバイン"においても、マイケル・ムーアは"アメリカの銃社会"に焦点を当て、全米ライフル協会や銃規制の緩さへの彼の批判に押され、被害者のそれまでの生活風景はないがしろにされ、ラストでは利用までされていました(何しろクレバーな利用方法ではありましたが)。ヴァン・サントは、そんな政治的な執拗な原因の究明に嫌気が指していたのではないでしょうか。犯人たちへの過度な動機の推理や、特定の人物を非難又は擁護する際に、人物ではなく事件の一つとして扱う姿勢に...。

<リアリズムの極地>
彼はこの事件を、"事件が起こるまで/起きたその最中の日常を描いた、一つの群像劇"として扱いました。何しろ、この映画はフィクションなのです。現実と虚構の差を縮めても、100%現実になることは不可能です。そこでヴァン・サントは、一種のパラレルワールド、箱庭的な側面からこの作品を制作しました。現に彼は、現実の事件の加害者、被害者の名前を演じる俳優の本名に差し替え、俳優自身に台詞を即興的に喋らせ、俳優自身の体験を脚本に盛り込み、登場人物=俳優という、劇映画であることを顕著に表すような式を完成させました。色々と誤解を招きかねないキスシーンまで挿入しました。映画は映画であるということを彼は妥協し、自分なりの解釈で事件を取り扱うことにしたのです。しかし現実とリアルは似て非なるもの。彼はこの事件を模した作品を、徹底的にリアリズムに、構造主義的な視点で作り上げました。そしてヴァン・サントの巧みな編集と、撮影監督であるハリス・サヴィデスの構造映画的なカメラワーク、カメラ固定時の構図の圧倒的な説得力、そしてロングテイクでもって、何と見事か、リアリズムがありながらも、上映時間を81分までに短縮させたのです。一般的に、上映時間が長い程、人はその映画にリアリズムを感じます。登場人物への感情移入の時間、作品の世界観に浸る時間が単純に多くなるからです。青山真治のEUREKAや、タル・ベーラのサタンタンゴ等が代表例として挙げられます。ヴァン・サントは、彼らとはまた違ったアプローチにて、リアリズムの確立に成功しました。こんなリアリズムの確立法は唯一無二なのではないでしょうか。どうしてこの映画はこんなにもリアリズムを感じるのか、一口で説明出来る程の文章力も頭もない自分に悲しくなる。出来ないなりに表すと、"(クラーク版エレファント+サタンタンゴ)÷2+a" です。

<良く出来た模造品から見えてくる現実>
ヴァン・サントは、事件の良く出来た模造品を見せつけ、そのテーマとなった事件の全貌を観客に想像させます。その想像は、想像する前に見た、死傷者の数字やメディアの言葉、もっと言うと、劇中の惨劇以上に膨大で、エモーショナルな感情を我々に抱かせます。加害者被害者にも生活があったこと。私たちと同じ人間であり、日々を過ごしていたということ。そしてそんな日々を終わらせた事件の真理というものが、極めて理解のし難いものであるということ。そんな当たり前なことを、この映画は気付かせてくれます。そしてこの手法はgerryとも重なり、次作である"ラストデイズ"とも重なります。この三つの作品は、どれも報道されている現実の事件の内容とは少し異なり、ヴァン・サント自身の解釈にて話が展開されて行きます。それ故にラストデイズでは、実際の事件と余りに相互がありすぎて、リアリズムを失い、その結果として、テーマとなった現実の事件を想像し辛くなっているように感じます。gerry、エレファントが初級編だとするなら、ラストデイズは上級編です。

<ベニーの存在意義>
私的な感想ですが、私はこの映画がガス・ヴァン・サント作品史上の最高傑作であると考えています。偏に映像の美しさ、特に学校という閉鎖的な空間を、たったワンショットで表現しているカメラワーク、構図だったり、作中に通して流れる重い空気感だったり、鑑賞後に、こんな事件が実際にあったのかと考えた時に生じる、何とも言い難い虚無感であったり、考えれば幾らでも思い浮かぶことが出来ますが、どこが一番良い点なのかと問われれば、私はベニーの存在だと答えます。言わばクラムボン的な価値観を感じるのです。彼はジョックの象徴なのでしょうか。盲ろう者なのでしょうか。薬物でキマッてたんでしょうか。単なるリアリズムの為、インターミッションの為に彼を置いたのでしょうか。もう分かんねえから終わり。
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