Jeffrey

白い恋人たち/グルノーブルの13日のJeffreyのレビュー・感想・評価

5.0
「白い恋人たち」

〜最初に一言、神作。クロード・ルルーシュ監督による最高傑作。ダイナミズムとメタフィジックの豊かさに圧倒され、スポーツのエッセンスだけによって構成された本作は、スポーツを通してスポーツ精神と人間の典型があり、スポーツに名を借りた世界の精神と肉体の祝典を見事に捉え、生命の最も純粋な姿を見せつけた人間の素晴らしさと、たくましさを映した歴史的傑作である。フランシス・レイによる音楽が大変リリカルで美しいのは言うまでもない。いちど聴いたらそのメロディの虜になる。正に世紀の傑作記録映画だ〜

本作は東和創立40周年記念公開作品で、市川崑監督による「東京オリンピック」の描写にインスパイアされたクロード・ルルーシュ(フランソワ・レシャンバックも)が1968年に監督した冷戦問題を横に抱え開催された第10回冬季グルノーブル"仏"での13日間を一切ナレショ無しにルルーシュ率いる天才達が撮り上げたドキュメントで本作を見るにあたっては当時の時代背景とオリンピック事情を知って鑑賞すると平和の祭典とは裏腹に地獄の様な出来事が見え隠れする…が本作は一切の偽りが無く、ただ真っ直ぐに選手や合唱団、人々の交流を映す。更に私が愛してやまないフランシス・レイの音楽は素晴らしいの一言で、作品に馴染み画面全体をダイナミックに変える。監督と言えばアカデミー賞とパルムドールを受賞した「男と女」(最近ではリメイクもされたようだが)が有名だが、私はこちらの作品のが断然好きである。

このたびこの時期であることもあるが、久々に紀伊国屋から発売されているBDで再鑑賞したがやはり傑作である。なんとも魅力的な作品で、いつも冬の時期になると見たくなる1本である。ナレーションもテロップも一切排除してほぼ映像の力だけによって伝えようとする試みが、本作では実践されており、オリンピック競技とその周辺の出来事を等しくフィルムに収めている。小型の手持ちカメラを備えた撮影者がスキーヤーと並走をしてフィギュア・スケーターの目になったカメラが氷上を高速回転する迫力のスペクタクル映像に加え、競技開催地の喧騒やそこに降りてくる一瞬の沈黙をとらえた記録映像が、当時の空気をダイレクトに見る者に伝えてくれる。映像を時に叙事詩的に盛り立て、時に批評的に捕捉するのは、ルルーシュの盟友フランシス・レイ(作曲)とピエール・バルー(歌詞)による、あまりにも有名な主題曲を始めとする音楽の数々。

ジャン=クロード・キリー(アルペンスキー)やペギー・フレミング(フィギュア・スケート)ら、当時のスター選手の雄姿が垣間見れる点でも、ウィンター・スポーツファンには見逃せない1本と言える。この冬季オリンピック大会はフランスのグルノーブルで1968年2月6日から18日までの13日間、37カ国1355人の選手が集まって開催されており、フランス中が興奮に包まれたこの13日間の祭典の全てを、カラーのカメラに収めたのがこの映画である。監督は先ほども述べたように、「男と女」「パリのめぐり逢い」などで独自の映像美を作り出したフランスの名監督ルルーシュで、「アメリカの裏窓」などの作品でドキュメンタリー監督ナンバーワンと言われているフラン・ソワ・ライシェンバックの助力を得て、この祭典に集まった人々が繰り広げる人間ドラマの表情をあらゆる角度から捉え、色彩豊かな映像にリリックな音楽をマッチさせて、記録映画に全く新しい境地を開くことに成功している。

撮影に使用されたフィルムは93.000メートルで、撮影に従事した技術者は、スキーカメラマンとしてその名を知られているウィリー・ボークナーはじめ、20数名である。60台のカメラを縦横に駆使しているのだ。用られている音楽は全て「男と女」でルルーシュと組んでいたフランシス・レイの作曲で、リリックの美しさに満ちているメインテーマ「グルノーブルの13日」はじめ「キリーの歌」「ペギーの歌」滑降の歌」の4曲で、作詞はアヌーク・エーメの夫、ピエール・バルーである。彼自身及び新人女優ニコール・ロワジールの2人が歌っている。やはりこの監督は人間を描き続ける映画作家だなとこの映画を見てつくづく思うのである。作品にとって大切なのは、テーマと並んでエモーショナル(感情豊か)な表現なのは当たり前で、顧客とスクリーンとの間にー種の人間的な情熱の交流が行われなければならないと常日頃思っている監督だと思う。

確か彼はこの作品についてインタビューで、人の心の奥のわずかな感情のひださえもスクリーンに鮮やかに浮彫りし、見る者に深い共感を呼び起こさずにはおかないと話していて、人間を描かせては定評のある映画作家クロード・ルルーシュは、ここにまたもや、新しい人間ドラマを作り上げたとそう感じるのだ。冬季オリンピックと言うスポーツの祭典の中で、能力の限界ギリギリまで記録に挑戦する選手の厳しい孤独な表情、熱狂する観客を感動と興奮の中に捉えて、人間のもう一つの姿を我々の前に描き出し、その観察眼の鋭さは、彼が記録映画畑出身であり、その間に蓄えてきた経験と多彩なキャリアを知れば、当然うなずける事なのだが、66年度カンヌ国際映画祭グランプリを受賞した「男と女」そして67年「パリのめぐり逢い」と次々にヒット作を発表し、一躍世界的映画作家の地位を確立したフランス映画界の彼が、2019年に自身の作品をリメイクするほど活力に溢れていることに幸せと幸福を感じるのだ。

ちなみにクロード・ルルーシュについての書籍などを読むと彼の生い立ちが結構わかってくる。例えば彼は1937年にパリに生まれるが、少年時代から映画が大好きで、自ら映画を撮らないと気がすまないようになってしまい、パリの露店で買った中古のムービーカメラで彼は15歳の時に、最初の短編映画を撮る。わざわざアメリカへソビエトへ出かけて撮影してくるほどの熱心さであり、その努力が報われないうちに収集されてしまい、3年間陸軍の写真班に勤務したそうだ。60年に除隊するといよいよ本格的な独立プロを作り、制作、監督、脚本、撮影の1人4役の活躍ぶりで、映画作りの全てを体得している。日本でも公開された風変わりなドキュメンタリー「女を引き裂く」は64年の作品で知る人ぞ知る作品だ。この頃からようやく彼の才能が注目されるようになり、続く「銃と娘」(日本未公開)は見事とある映画祭でグランプリを受賞したと書いてあったと記憶する。

映画界に飛び込んで10年余りの間、彼の手がけた作品は短編、長編合わせて8本で、その他にPR映画などを含めると100本はくだないと言う精力的な仕事ぶりを続けているのだ。人知れぬ苦労を味わった事は無論であるが、この世に人間が存在する限り、彼のテーマは尽きることがないのではないか…と思えてくる。ドキュメンタリー映画だから特にネタバレって言うばらし方もないが、ルルーシュの期待に応えたフランシス・レイの音楽が大変リリカルな美しいテーマを作り、映画の随所にそのメロディーを流していて、華やかな大会が終わって昔の静かなグルノーブルに帰っていくラストシーンのコーラスは大変印象的である。遠くアテネで点火された聖火を掲げて若者たちが走り、白く息を弾ませて凍える手にしっかりとトーチを握り締めて若者が走る描写、そのバックに優雅に流れる彼のメロディー、下向きに走る若者たちとは、全く対照的な美しい調べである。

この作品を見るとつくづくオリンピックは、祭りであり、スポーツに名を借りた世界の精神と肉体の祝典であることを再確認するが、近年のオリンピックはあまりにも政治色が強く、見ている観客としてはゲンナリしてしまうのだ。来年の2月の北京冬季オリンピックはどういったものになるのか不安で仕方がないが、少なからずこの作品は、生命の最も純粋な姿を見つけられるし、人間の素晴らしさ、たくましさを、互いに、交援し合う数々のシークエンスが脳裏に焼きつき、国々に人あり、人みなすべて、その人間らしさを、より早く、より強く、より誇りを持って表現する。これがオリンピックの栄光であり、歓喜だろうと言わんばかりの映像が繰り広げられるのだ。

とりわけこの作品を見て大絶賛していた映画評論家の虫明亜呂無氏は、人は誰もが瞑想の楽しみを知り、イメージがイメージを。現実よりも、もっと正確で、遥かに永遠に連なるイメージが、我々をとらえて離さないと絶賛していたことを思い出す。本作の画期的なところは、どのスポーツよりももっとスポーツ的に、人間に迫っており、そのダイナミズム、そのメタフィジックスの豊かさが圧倒的なのだ。「白い恋人たち」の輝かしさは、この作品がひたすらスポーツのエッセンスだけによって構成されているからに違いない。前置きはこの辺にして物語を説明していきたいと思う。

さて、物語(内容) はアテネからグルノーブルへ。遠くアテネで点火された聖火が走り始めた。頬を紅潮させた若者たちが、山道を街を峡谷にかかった橋の上を聖火をかけ掲げて走り続ける。ブルドーザーが道の雪を削る。多勢の整備員が肩を組みコースを踏み固める。リフトの試運転や選手の練習も始まった。優勝候補のゴワシェルもいる。コースを研究する表情は真剣そのものだ。そしていよいよ開会式。世界の37カ国から1350名の選手と65,000人の観客が集まってきた。そこには日の丸を掲げる日本人もいる。巨大な会場が人で埋まる。開会宣言するのはドゴール大統領。フランス国家の合唱。こだまする歌声を合図にスカイダイバーが降下し空からの祝福の花が咲く。色とりどりのブレザーをまとった選手団の入場。やがて一瞬の静寂。成果の入場だ。オレンジ色の炎を掲げる若者が高い高い聖火台を駆け上がる。点火!グルノーブルに望火が燃える。

スケート-女子500メートル。体を折り曲げちぎれんばかりに腕を振り全力を込めてスタート。エッジが氷を噛み身体がスピードに乗る。コーナーで交錯するエッジが鈍い音を立てる。転倒!が、やがてその中に勝者と敗者が色分けされて行くのだ。続いてアルペンスキー-男子滑降。優勝の呼び声高いキリーの登場だ。表情は険しく柔軟体操も必死である。スタート! 800メートルを超える標高差。猛烈な急斜面にくり広げられる。時間との戦い。そしてゴール!優勝の栄冠は彼の上に。その全身を襲う歓喜の波、ようやく微笑みが漏れて際限のない問いかけにやっと雄弁になった勇者はいつまでも答え続ける。続いてアルペンスキー-女子滑降。スピードは時速100キロに近い。天候も悪い。コースは凹凸が激しく、失格者が相次ぐ。その中で勝ち得た栄光、跳び上がり抱き合い、全身で喜びを表すオルガ・パール。

続いて、フィギュアスケート-女子。氷上に花のように舞う若々しい肢体が回転し、走り、飛躍する。ひときわ鮮やかなライト・グリーンの衣装。ブラウンの髪と瞳はペギー・フレミングだ。持てる力の全てを出し切って、得た優勝の喜び汗と涙が流れだす。中盤戦を迎える大会。3冠を目指すキリーはアルペンスキー大回転競技に出場。2個目の金メダルを獲得した。リングにスロープに白熱の競技が繰り広げられて行く。氷壁の間を凄まじい勢いで疾走する。1人乗り、2人乗りリュージュ。2人乗り、4人乗りボブスレー。旗を振り、笛を吹きスクラムを組んで合唱する。応援合戦もたけなわだ。苛酷さはマラソンをしのぐと言う。孤独との戦い、ノルディック距離レース。ゴール・インの瞬間は流れる汗や唾液さえも拭く気力すら残っていないようだ。

続いてペア・スケーティング。2人だけの無限の世界。あるいは孤独の世界なのだろうか。明るいSpotlightの中で、男と女の体は見えない糸で結ばれ合い、離れて、広がり、舞う。だから髪の毛1本ほどの間隙が瞬きするほどの時間の狂いが2人を転倒させ哀しませもする。続いてアルペンスキー-女子回転。時々ガムを噛むのは緊張を和らげるためなのか、引き締まった表情に決意がはちきれそうだ。ゼッケン5のスタート。豪快なフォームが雪に煙る。電光板に優勝が告げられると、その厳しかった眼が喜びに輝く。誰でもお構いなく抱きつきキスを交わすゴワシェル。続いて、アルペンスキー-男女回転。青旗は思いっきり突っ込む。傾斜は急角度にアタックしろ、次の赤旗を注意するんだ。目を閉じてポーズをとりコースを頭の中に叩き込む。

強い風がうなりをあげてコース・コンディションは最悪。各選手の転倒、失格が多い。しかしキリーは勝った。3冠王を勝ち取った。続いて、アルペンスキー-女子大回転。鍛え抜いた足腰にコーチが最後のマッサージをプレゼントする。さあカメラの追撃だ。見たまえ、このスピード、この体への衝撃を。優勝はナンシー・グリーン。しもやけした顔が喜びに湧いて白い歯が覗く。続いて、アイスホッケー。選手も観客席も熱狂の極。控え選手も我を忘れてんて鼻をかみ唾を吹き散らす。歓声、怒号、足踏みの音が渦巻く。青いユニホームがチェコ、赤はソ連。青と赤の塊が盛り上がり激突し火を吐く激しさ。勝った!青いユニホームに包んだ巨体を子犬のように飛び上がらせ熱狂するチェコ・チーム。

続いて、スキー-ジャンプ。フォームの美しさと飛んだ距離で採点されるジャンプ。採点の終幕を飾るにふさわしい豪華な競技だ。スタートを切った選手は羽が生えてでもいるかのように周りの森林を眼下に一人またー人飛んで行く…。そしていよいよ閉会。空から小さなパラシュートが煙筒を吊り下げて降りてくる。晴れ切った空の下に鮮やかな色の煙が生き物のようにうごめく。ボブスレーのコースはひと気もなく氷壁が陽に光っている。自動車がいっぱいだった駐車場も今ではその広さが虚空しい。さっきまでの興奮とざわめきはどこへ行ったのだろう。いろんな国のいろんな人たち。夜毎のパーティを彩ったアズナブルやダリダ。男心を誘った水着のモデルたち。カメラ狂いの日本人。よそ見が好きな楽隊の隊長は。

ともかく大会は終わった。いろんな数字の組み合わせが電光板に浮かんでは消えた。優勝や失格や新記録や負傷者やら。喜びと悲しみが降り出した冬の祭典の幕が降りる。やっと静寂さを取り戻したグルノーブルの街に2人の男が国旗をたたむ。雪がまた降ってきた…とがっつり説明するとこんな感じで、人間ドラマの異様な厚みが描かれており、巨大な祭典に集まる人々と選手も一般人も含めた人間ドラマが異様なカメラアングルから浮き彫りにされており、スピード感の表現は抜群であり、この感じは本物とすぐにわかるユニークな、スポーツの新しい詩と言っても良い程の華麗な行動の映像詩である。正に圧倒的にほとばしる情熱を見たい方には絶対にお勧めできる作品になっている。色彩と音楽で綴った本作の強烈無残に圧倒されるきらめきの現代感覚が何とも言えないクールな感触で捉えられた若者の祭りの哀歓。

映画監督の市川崑がルルーシュは夢を現実に作り替えた。彼は、スポーツの美しさ、楽しさを通して、現代のロマンを見事に創りだしたと現代のロマンの創造と大絶賛していたことを思い出す。このグルノーブルで開かれた冬季オリンピックの13日間と言うのはオリンピック開催期間としては空前の長期だったそうだ。ここで少しばかり第10回冬季オリンピックの設立について話したいと思う。これは遠山純生氏が解説していたBDの中に入っている冊子を読んでわかったことだ。このオリンピックは、テレビで大々的に放映された冬季オリンピックで、1545人に及ぶ公認の報道関係者がグルノーブルに集まったと言う。祭典自体が大規模なメディアイベントであり、祭典開催にあたって膨大な資本が投下された点で、グルノーブル・オリンピックは冬季オリンピックの新時代を告げたと言われている。グルノーブルは1960年以来、第10回冬季オリンピック招致に向けて動いていた。

そして62年末までに、オリンピック招致委員会は17万フランに及ぶ助成金を政府機関を始め各方面から獲得することに成功して、その結果、1964年1月28日にオーストリアのインスブルック(64年冬季オリンピックの開催地)で開かれたIOC (国際オリンピック委員会)の総会で、グルノーブルは第10回冬季オリンピックの開催地に選出されたそうだ。三度にわたる投票の末、グルノーブルはカナダのカルガリーに3票差を左(27票対24票)で勝利したそうだ。オリンピック村と競技開催地の問題もあったようで、65年、IOCはグルノーブル・オリンピックをドフィーネ地方(イゼール県を含むフランス南東部の地方)の互いに距離が離れた六箇所の開催地で行うとの開催委員会の決定に、異議を唱えたようだ。グルノーブルで行われる競技は、スケート(スピード及びフィギア)とアイスホッケーのみだった。

他の競技は、オトゥラン(クロスカントリー・スキー)、サン・ニジエ(90メートルスキージャンプ)その他で行われることになっていて、各開催地が距離的にかなり離れていたために、オリンピック選手村を3カ所に作らざるをえなくて、メインの村グルノーブルに、他の2つの村はオトゥランとシャンルースに作られたそうだ。IOCは早い段階で、こうした処置が競技にとって有害な結果をもたらす(選手村が分散させず1カ所に絞った方が望ましい)ことを心配しており、この件に関し、グルノーブルの開催委員会はテレビの取材に都合の良いようオリンピック村を3つに分けたので、との批判も出た。事実、開催委員会はテレビ局に大会の模様を記録した映像の放映権を得ることで、200万ドル相当の出費をリクープしたそうだ。これは、1964年にインスブルックの開催委員会が回収した93万6667ドルの倍以上の金額だったらしい。

グルノーブル・オリンピックでは、前回開催のインスブルックと比べて出場選手の人数が増えたわけではなかったが、報道機関関係者の数はうるさく感じられるほど著しく増えていたと言う。オリンピック競技において、大規模な視聴覚メディア・イベントを作り出すために出場選手の便宜を犠牲にする事は、これ以後オリンピック開催時に慣習化するようになったとの事。選手村の分散のみならず、競技開催地の選定も厳しい反応的になって、中でも論議の的となったのが、ボブスレーとリュージュのトラックに関してだそうだ。設備投資にかかる費用が極めて高額だった上、直射日光に長時間さらされる場所であったために、氷が常に溶け続けているような会場だったらしい。そして政府の介入と政治問題まであるらしく、グルノーブル・オリンピックは、フランスにとって政治的な重要性を備えたイベントでもあり、そのため政府の要人が多数同大会の観戦に参加したそうだ。

それにまだ冷戦時代だったため、東ドイツチームの参加を認可する否かをめぐっては、大会の背景に横たわる冷静問題が浮上したそうで、IOCはすでに、東ドイツのNOCを認可していて、当時NATO (北大西洋条約機構)は、東ドイツ代表団のNATO諸国への渡航を、入国ビザ発行を拒否することで封じていたようだ。NATOの処置には、NOCが民間人に対して海外渡航制限していることを基本的人権の侵害とみなし、そうした状況に対する抗議としての意味合いが持たされていた。NATOの一員として、フランスには同機構の方針を支持する義務があって、IOCは東ドイツチームの参加を認めるつもりだったのだが、フランス政府は東ドイツのオリンピック代表団が入国することを拒否する立場をとっていたそうだ。ところが、先客67年、グルノーブル開催委員会会長アルベール・ミシャロンがポンピドゥー首相から、フランス政府は東ドイツのオリンピックチーム入国を阻止する等の確認を取り付けて問題は解決したようだ。

ちなみに東ドイツは成績は良かったものの、結局細工をして行ったのが後に発覚して、失格の判定を下されると言うスキャンダルもあったようだ。そして反商業主義キャンペーンと言うものがあって、グルノーブル冬季オリンピックをめぐって生じた出来事のうち、運営側にとって最も厄介だったのは、ブランデージによる商業主義撲滅キャンペーンだったようだ。さて、ここからは印象的だった場面を紹介していきたいと思う。まず本作は冒頭から印象的で、本作の主題歌と言っていいメロディを口笛で吹かれ、解説が入りフランスのトリコロール国旗が写し出される。そんで、Francis Lai and His Orchestraの白い恋人たちが流れる中を聖火をもってリレーする少年から大人までのショットが入り込む印象的な場面である。

そんでFrancis LaiのDescente (Chant)が流れるのだから興奮してしまう、しかも歌詞付きで。んで、フランスの開催地と思われる街並みや風景と日常が挟まれる。そんでスキー選手の男性が骨折して顔面から流血するグロテスクなシーンに変わるのだが、非常に痛々しい。そこから一気に華麗なフィギアスケート(女子)の華麗な回転が写し出されるのだ。そんで続いては我らが日本人の登場で、セピア色に加工された中、日の丸を肩腕に付けて、写真に興味津々もしくは腕時計に興味津々な姿やなにやらゲームをしてる模様が映し出される。Nicole CroisilleのKillyの歌声で選手団のクローズアップが映し出て、冬のスポーツにも関わらずホッケー選手の大粒の汗の姿を見るとかなりの運動量だなと言うこともわかる。にしても股の下からスキーのダイナミックな捉え方は凄い。選手の吐息がリアルすぎる。臨場感溢れるワンシーンである。そんでフランス人選手のキリーが金メダルを獲得するときの大歓喜に包み込まれるフランス勢が面白い。

「白い恋人たち」は、1968年5月に生じたいわゆる5月革命(大学制度改革を求めるパリ大学の学生運動に端を発するもので、そこに地方大学の学生や労働者や教員組合や農民組織も加わった運動はフランス全土に波及、社会変革を求める大衆運動とかし、警官隊と衝突や大規模なストの実施で社会を一時的麻痺状態に陥れた上、ドゴール大統領の退陣を準備した)の直後にパリで封切りされており、そのため、基本的に政治とは無縁のこの映画は、アクチュアルな要素(革命)によって生じた混乱や論争を欠いている点を批判されたそうだ。もっとも挿入歌「ペギー」(選手)におけるバリューの詞は明らかに反米的(反ベトナム戦争的)なものであるし、街中で広げられる新聞紙をとらえた画にはベトナム戦争の記事が掲載されているのが認められてオリンピックのお祭り騒ぎの最中にも世界は依然として危機的状況にあることが控えめに示唆されている。

あるいは、ソ連チームとチェコスロバキアチームが対戦するアイスホッケーの試合のシークエンスに感じられる殺伐とした空気。互いに対する両者の憎悪が透けて見えるようなこの件には、撮影直後に発生したいわゆるチェコ事件(1968年春から夏にかけてドゥプチェク党第一書記による自由化政策=プラハの春)が実践されたチェコスロバキアに、同年8月ソ連、東欧軍が介入し弾圧した事件)を予告する空気を嗅ぎ取れる。ちなみに、ルルーシュ監督は、フランソワ・トリュフォーやゴダール、ルイ・マルとともに、1968年5月に開催されたカンヌ映画祭を中止に追い込んでいる。同映画祭で、「白い恋人たち」の自身が制作した「青い恋人たちの詩」が上映されることになっていたにもかかわらず阻止したのだ。ちなみに、この暴動を描いたベルナルド・ベルトルッチ監督の「ドリーマーズ」のクライマックスでこの暴動のワンシーンが描かれている(レビュー済み)。



長々とレビューしたが、最後に余談話をすると、今回のオリンピックで金メダルを3個受賞したスキー選手のキリーが3個目の金メダルを受賞したのは、陰謀だったのではないかと言う噂が流れたのだ。その内容は、オーストラリアのカール・シュランツと言う選手から始まり、彼は最速のタイムを記録した後で失格判定(旗門不通過)を下されてしまって、この判定を、当時の熱狂的なアルペンスキー・ファンの多くが不当なものだと感じたようで、さらに2位だった選手も旗門不通過で失格になり、そのおかげで、第3位だった彼が3つ目の金メダルを獲得することになったのだ。この判定は、彼を繰り上げ優勝させるための陰謀ではないかとの疑惑が浮上したのだ。フランスの大会でフランス人が優勝すると考えてしまうと、疑ってしまうことだが、果たして真実はどうだったのだろう…最後にこの映画が最も素晴らしい点は公式記録、スポーツ、問題提起映画では無い所にある。
Jeffrey

Jeffrey