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ミッションのtanayukiのレビュー・感想・評価

ミッション(1986年製作の映画)
4.0
エンニオ・モリコーネのドキュメンタリー映画でその存在をはじめて知り、興味をひかれた本作がU-NEXTでしか見られないとわかって、しばらく逡巡した末に課金する決心がついたのは、この「ミッション」(1986年、ローランド・ジョフィ監督)が、同じくモリコーネとデ・ニーロの組み合わせである「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984年、セルジオ・レオーネ監督)と「アンタッチャブル」(1987年、ブライアン・デ・パルマ監督)のあいだに制作されたと気づいたからだ。当時のデ・ニーロは40代前半。精悍な顔つきとデ・ニーロには珍しいロン毛に男の色気が宿る。

タイトル「ミッション(The Mission)」は、キリスト教宣教師の「使命」というだけではなく、イエズス会が16世紀末から18世紀後半にかけて南米パラグアイ、ブラジル、アルゼンチンにまたがる国境地帯でいくつも設立・運営していた「伝道所」そのものを指す。当時、新大陸の先住民グアラニー族(インディオ)をとらえて奴隷にする奴隷貿易を黙認していたスペイン・ポルトガル両国に対して、「Reducciones jesuíticas(イエズス会伝道所)」と呼ばれた先住民の居留地はある種の「サンクチュアリ」として機能していた。

「イエズス会は、特に南米南東部において、スペインで広く行われていた「レダクシオネス」と呼ばれる入植地を作り、広範囲に広がる先住民を集中させて、先住民の統治、キリスト教化、保護を強化していた。イエズス会の「レダクシオネス」では、各家庭に家と畑があり、個人には労働の対価として衣服と食事が与えられていた。さらに、学校、教会、病院があり、各「レダクシオネス」には2人のイエズス会宣教師が監督する先住民の指導者と統治評議会が設けられた。フランシスコ会と同様に、イエズス会の宣教師たちも現地の言語を学び、大人たちにヨーロッパの建築、製造、農業の方法を教えた。スペイン人入植者は「レダクシオネス」で住むことも働くことも禁止されていた。これにより、イエズス会の宣教師とスペイン人との関係はぎくしゃくしたものになった。それというのも、周辺のスペイン人入植地では、人々は食料、避難所、衣類を保証されていなかったからだ。1767年にイエズス会はアメリカでのスペイン領から追放措置を受け活動を停止した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/サン=フェリペ号事件

映画では、十字架に磔にされ、滝壺へ落ちて殉教した宣教師のあとを継いだガブリエル神父が一代でイエズス会の「伝道所」を築いたように描かれているが、実際には150年以上にわたる伝道活動の成果であって、最盛期には14万人以上のインディオたちが暮らしていた。また、スペインとポルトガルの国境策定によって、伝道所の住民たちが退去を迫られ、イエズス会士とともにはじめた抵抗運動(映画のクライマックスにあたる虐殺事件)が鎮圧されるまでに数年を要している。伝道所が最終的に放棄されたのは、新大陸からのイエズス会追放令が出たからで、教団を守るために先住民を見殺しにしたイエズス会もまた、国家による弾圧に苦しむことになる。1773年には列強の圧力に屈したローマ教皇クレメンス14世はイエズス会を禁止するが、1814年に復活。その後も命脈を保ち続け、2013年、ついに、史上初のイエズス会出身のローマ教皇フランシスコ(現教皇)が誕生する。

「フランシスコは3月16日のメディア向け会見の席上、教皇名を選んだ際のエピソードとして、冗談と前置きした上で「『君はクレメンス15世を名乗るべきだ。そうすれば(上記の通りイエズス会を弾圧した)クレメンス14世に仕返しができるじゃないか』と言われました」と述べ、出席者の笑いを誘った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/イエズス会

イエズス会にとっては、かの地で命を落とした伝道師たちは聖なる殉教者、悲劇の英雄なのかもしれないが、遠い異国の地の権力闘争にまきこまれ、まきこまれたことさえ知らずに命を落とした先住民にしてみれば、余計なお世話以外のなにものでもないだろう。イエズス会がインディオたちを保護するためにつくった「保護区」がなければ、もっと悪い未来もありえたかもしれないが、文明化という名のもとに、頼まれもしないのに異文化を持ち込み、異教の神を押しつけ、1世紀以上の時をへてそれが定着してから根こそぎ奪ったという事実は消えない。これを美談にしてはいけないと思う。

モリコーネ作「ガブリエルのオーボエ」は心に残る美旋律だが、この曲にみちている「赦し」と「慈愛」と「希望」が、見るも無残に打ち砕かれてきたのが、現実の歴史でもある。モリコーネは何も悪くない。だけど、これを聞くと、勝手に殉教して、勝手に救済されてるんじゃねえぞ、と思う自分がいるのもたしかなのだ。

若かりし頃のリーアム・ニーソンが宣教師役で登場する。この映画を見て、同じ宣教師の過酷な運命を描いた遠藤周作原作の「沈黙 -サイレンス-」が自然と頭に浮かんだのは、もしかすると、リーアム・ニーソンがフェレイラ神父を演じていたことがどこかに残っていたのかもしれない。南米奥地のジャングルや極東の島国まではるばるやってきて、命を賭けて神の御心を伝えようとするかれらの宗教的熱狂には圧倒されるほかないが、だからといって、その上から目線の文化侵略と自分たちの神以外は認めない排他的な宗教観を無邪気に受け入れるつもりはないのだ。

本作には当然、もう一方の当事者であり、虐殺されたインディオたちがたくさん出てくるが、かろうじて部族長とメンドーサになついた少年がクレジットされているほかは、「その他大勢」のエキストラ扱いでクレジットはない。自分はそれを見て、そういうところだぞ、と思うのだ。

映画の冒頭、十字架に磔にされた神父(一瞬デ・ニーロ本人かと思ったがちがう人のようだ)がイグアスの滝を落下するシーンは、どうやって撮ったのだろうと思うくらい真に迫っている。真偽のほどはわからないが、滝壺に落ちたスタントマンが行方不明になったというウワサもあるそうで、このシーンだけでも、この映画を見る価値はあると思う。泥だらけになってインディオたちとたわむれるロン毛のデ・ニーロがキリストその人に見えてしまう(実際に見たことがあるはずはないんだけど)のも、おそらく狙いなんだろうなあ。

△2023/04/13 U-NEXT鑑賞。スコア4.0
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