ワンコ

グッド・ウィル・ハンティング/旅立ちのワンコのレビュー・感想・評価

5.0
【「君は何も悪くない」】

NHK深夜の多様性特集の放送。

この作品は、幼馴染のマット・デイモンとベン・アフレックが非凡な才能を見せつけたことがよく知られているのだが、彼らの才能を見出し、一気に映画化に漕ぎ着けたプロデューサーのワインスタインは最近、性暴力で逮捕され有罪となった。こんな良い作品なのに皮肉なことだと思う。

この「グッド・ウィル・ハンティング」の秀逸だなと思うのは、多層的に配置された登場人物像のどこかに、多くの人が、多かれ少なかれ、自分と重なるようなところを見出させるようなアレンジになっていることとと、物語自体としては、固定観念というか、自分の勝手な思い込みで自分自身を縛り付けるようなものからは解放されて、自分で考え、選択することが、責任は伴うけれども、尊いのだと、誰にでも共通するテーマを提示しているところではないかと思う。

誰しもが不安を抱え、それを乗り越えようと苦悩・葛藤し、だが止まることなく、”心のままに”前進して行くのだという姿。

多様性で括ると、ジェンダー、エイジ、ハンディキャップ、人種、民族、宗教、ノン・バイナリーなんかがすぐ思いつくけれども、この多様性を考える映画シリーズに「グッド・ウィル・ハンティング」を入れてきたところは、NHKのセンスの良さだと思った。

(以下ネタバレ)

ウィルは、孤児で、虐待を受け、衝動的に犯罪を繰り返してしまう保護観察付きの前科者だ。
驚異的な記憶力を有している他、数学の天才で更なる可能性を秘めているが、本を読むことによって得た知識に過剰に依存し、他者を攻撃し、内に籠る傾向が高い。

ランボーは、フィールズ賞の受賞者で、ウィルの類まれな才能を見出し、更にそれを伸ばそうと心理カウンセラーを見つけるなど最大限の努力を払うが、実は、その裏には、行き詰まってしまった自分の才能と、ある種のジェラシー、そして、今後の数学界の発展を考えなくてはならないという教育者としての義務感の間(はざま)で苦悩している。

ショーンは、友人であるランボーの依頼で、ウィルのカウンセリングを渋々引き受けるが、妻を亡くした喪失感から立ち直ることが出来ずにいる。そして、ウィルに自分の重なる部分を感じ、寄り添ったり、時には突き放すなどして、ウィルを鼓舞し、実は、自分自身に対しても同様にしていたのだ。

チャッキーは、常にウィルに寄り添い、ウィルと集おうとするが、ウィルの才能を理解し、いつかウィルの背中を後押ししたいと考えている。

スカイラーは、出自など関係なく、ウィルを愛する。

くどくどと人物像を書いてしまったが、ウィルは、ショーンとのカウンセリングを含め様々な交流を経て、ランボーの後押し、チャッキーやスカイラーとの友情や愛情を感じながら、自ら決断するというのがストーリーだ。

僕は、NHKが何故、これを多様性特集に入れたのか考えたくなった。

ウィルの出自だろうか。
ランボー、ショーン、チャッキー、スカイラーの人物背景が、それぞれ異なることだろうか。

多様性という場合、僕たちは、いつの間にか、カテゴリー分けで考えがちになっているように思う。

ただ、この作品の終盤で、ショーンが「君はは何も悪くない」と繰り返し、抱きしめる場面を観て、多様性とはカテゴリーを指すのではなく、カテゴライズの違いはあっても、人間として共通した部分を見出し、相手を理解して初めて多様性を理解したことになるのではないのか。

だから、それぞれの登場人物のどこかに、自分のどこかが当てはまるように感じる背景を用意したのではないのか。
そして、人間関係とか、人への接し方とか、理解の仕方とか、愛し方とか、献身とか、背中を押す方法とか、そんなことも含めて観てみたらどうかと考えたのではないかと思うのだ。

多様性という視点で考えた場合、皆さんはどう感じたのだろうか。
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