yoshi

マレーナのyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

マレーナ(2000年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

モニカ・ベルッチの美しさよ❗️
それに異論を唱える人はないでしょう…。
DVD整理で発見して再見。
思春期を終えた男性であれば、見るのがとても恥ずかしい映画。
私もその1人です。
少年の目を通して甦る、性欲と愛情の区別がつかなかった恥ずかしいあの頃。
片思いの女性を守りたくても、何の力もなかったあの頃。

女性が見た場合、どのような感想を持つのでしょうか?
悲しい女の生き様に涙するのでしょうか?
それともマレーナの美しさに嫉妬するのでしょうか?

とてもデートには向かない映画です。
妻と2人で見ることも憚られる映画です。
男目線で正直な感想を語りたいと思います。

1940年、第二次大戦中のシチリア。少年・レナートは街一番の美女マレーナ(モニカ・ベルッチ)に目を奪われる。
妄想を重ね、彼女の私生活を覗く。彼女が部屋でかけていた曲のレコードを買い、自宅のベッドで聞きながらマスをかく。

ああ、恥ずかしい。健康な男性なら覚えはあるでしょう?

 マレーナの夫、ニーノが戦死したとの知らせが入る。悲しむマレーナとは裏腹に、街の男たちは「これでマレーナとヤれる」「チャンス到来」とほくそ笑む。

そう思ったのは積極的なイタリア男だけでは無いはずです。思うだけなら男なら誰でも思うでしょう?

マレーナは美しいが、それを鼻にかける描写は一切ない。
街の男の好奇な視線に気付いているが、貞淑な妻を貫くつもりだった。

語り手を思春期の少年にして、コメディタッチにした前半。
物語としては陰湿な話を、どこかノスタルジックな気持ちで観れる。
スケベで成長しない男たちの滑稽さも感じやすくなっている。

しかしある日、マレーナの頼るべき夫が戦死したという知らせが入る。
お金もない。食べ物もない。守ってくれる人もいない。
彼女は生きていくために美しさを利用するしかなかったのです。
その選択は彼女にとっては「絶望」であり、「唯一の生きていく術」だったのです。
 
ついに開き直った彼女が、派手な化粧を施し、男を誘う娼婦になった時、大勢の男が彼女の咥えたタバコにライターの火を差し出すシーンは、男たちの喜びに反して、冷めた目の彼女と半ばやけくそな彼女の心を映し出す、とても哀しい名場面。

娼婦となって、いろんな男に抱かれるマレーナ。夫が死に、本当は悲しみに暮れているはず、あの姿は本当の姿ではないと、憧れの女性にどうしても会いたい思いを募らせる少年。
しかし、彼女を救うための権力も、財力も、腕力も、何の力もない少年。

ただ、見ているだけしかできない少年と映画を見ていることしかできない私達観客が重なり、とても胸が痛くなります。

戦争が終わり、マレーナを含めた娼婦たちが、街の女たちに女の命とも言える髪を切られ、衣服をズタズタに引き裂かれて、罵詈雑言と共に責められる様も同じ。

私たち観客は、その場にいるのに何もできない少年、そして止めもせず何もしない群衆と同じ立場になるのです。
後半は胸が締め付けられる思いです。

夢の終わり。憧れの終わり。少年は思春期の終わりを迎えるのです。
性欲優先の思春期から、何かしてあげなくてはと考えるのです。
無償の愛を覚えるのです。

書いていて恥ずかしくなりますが、無償の愛という感覚を知るまで、男は少年(ガキ)のままなんです。
私も自覚したのは、だいぶ大人になってから…。男の精神的な成長は遅いのです。

ラストはネタバレになるので詳しく語りませんが、マレーナの夫は生きていて、何故か二人でシチリアに戻ってきます。
「それでも、人生は続く。」と言いたげな残酷な語り口です。

ここは必要なのか、個人的には疑問ですが、少年がマレーナを過去のものとして成長した。それを観客に実感させる為なのでしょう。

この映画ではマレーナは、自分の思いや考えを何も語りません。

劇中でもマリア様の格好をしていことからマレーナはマリア様、または娼婦から聖女になったキリストの弟子マグダラのマリアの象徴でしょう。
何も語らぬ、答えぬ所は、聖人のそれと同じ。
私は後者だと思っています…

公開当時、36歳のモニカ・ベルッチ。
すでに成熟した女性であり、懐の深い母親のようにも見えます。

後にメル・ギブソン監督作品「パッション」でマグダラのマリアをモニカ・ベルッチが演じたのは、決して偶然ではないと思います。

罪深き男達の浅ましい欲望を許したまえ…。
この映画の最後の最後、モニカ・ベルッチの歩く姿を見るたび、すでに年老いた私はそう思うのです。

追記
女性の皆さんは、この作品をどう思うのでしょうか?
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