垂直落下式サミング

平成狸合戦ぽんぽこの垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

平成狸合戦ぽんぽこ(1994年製作の映画)
5.0
英語タイトルは、ただ「POM POKO」っていうんですか。英語圏のキッズムービーは子供が覚えやすいよう単語一文字とかのシンプルで短い題名がつけられていることが多いですが、はたして『平成狸合戦ぽんぽこ』は子供向けなのか?これには議論が必要かもしれない。
子供の夏休み期間とかに何回もテレビで再放送されるものを「国民的アニメ作品」なんて言うが、このぽんぽこは「庶民的アニメ作品」だと思う。「国民的」であること「庶民的」であること。これは似ているようで違う。
こう言いきったからには、このあと文章を続けるにあたって気をつけて意識的に使い分けていくつもりだけど、僕はこの違いをうまく説明できない。感覚的なものだけど、強いて言うなら、国民的は「みんなの」って感じで庶民的は「俺たちの」って感じだ(なんだそりゃ)。
この映画、主人公が狸だということ。これでもう勝ち。この親しみやすさは、狸というキャラクターの持つ宗教的な強度、神でありバカでもある唯一無二の性質によるもの。古来から狸は人を化かす神通力を持つトーテムとして信仰の対象とされてきた。だが一方で、狸の置物は金玉袋がでかいし、浮世絵にもひどくマヌケに描かれるし、落語では若旦那に恩返しをしに来てもてんで役に立たないのだ。いじれる神性。畏怖される存在でありながらバカにされてもいるなんて、最高に「庶民的」ですごくかわいいじゃありませんか。
とにもかくにも、戦前生まれのドインテリが作った映画である。一筋縄ではいかない。東映アニメーション労働争議の当事者でいらっしゃる高畑勲監督のこと。狸たちの戦いを「太平洋戦争」や「安保闘争」など反体制のメタファーとして読み変えることも可能であるため、いくらでも深読みはできる。理想を夢見ながら戦いに負けてしまった世代の、どこか冷めているようで、まだ本気で諦めきってはいないモノホンの左翼のふてぶてしさ。諦めの悪さ。教養の凄さ。あるいは憧れや信念にとらわれる怖さ。これらを仰々しくしすぎないことで品を保っている。戦いを華々しく描かないし、自然を美しく盛らない。かっこいい。
化け狸というモチーフから言わずもがなであるが、映画のセリフの端々やアニメーションのタッチからも、日本史上において庶民の文化レベルが最高潮に円熟しきっていた「江戸」という時期への強い憧れがみてとれる。金玉がしゃどくろの百鬼夜行による歌川派RESPECT。昭和江戸前レジェンド古今亭志ん朝のナレーションも活弁の口調のようで、かつての見世物小屋から活動写真へと流れていった遺伝子をも取り入れており、庶民を相手にエンターテイメントを提供してきた職人たちへ捧げる物語だという面からみても興味深かった。
狸たちの妖術が人間に通用しなくなっているのは、人々に化かされる心の余裕がなくなったから。今の子供はおばけをみただけじゃ怖がらないと『モンスターズインク』でピクサーも嘆いていたが、それとはまた違った日本的な想像力の退廃が表現されていたように思う。
ところで、江戸時代のすごいところは、武士も庶民もおなじ演芸をみておなじように楽しむことができていたことだ。公的な階級制度を採用した国では、たいていは高貴なものが嗜む貴族文化と下賎のものたちの大衆文化に分かれて、そのふたつは互いに干渉することなく別々に発展していくことになる。今でもいけすかない紳士が気取ってやがるイギリスとかな(悪口)。
しかし、なぜだか江戸文化は身分による分断がほとんどおきなかった。江戸後期になると文化の担い手のほとんどは町人たちで、それがなんの抵抗もなく広く民間に浸透していって、階級の貴賤を問わず芸術に触れることができたわけだ。
お侍さんたちのなかにも家柄カーストがあって、長屋に住んで内職してたりするような貧乏人は下層階級と生活の基盤を共有していたから、こういったわかりやすい文化が身分格差を越えた共通言語になり得たのだろう。
偉い人も俺たちの隣人で庶民だったのである。「国民」でも「大衆」でもない「庶民」という言葉。幅広で曖昧でどっち付かずで、類語との違いを説明しようにもなんだかワケわかんない。庶民。やっぱり、いい響きだ。俺たち!ってかんじがする。
明治、大正、昭和と、産業革命やデモクラシー、二度の世界大戦を生き延び続けてきた庶民の立体的な生活の豊かさがついに滅んでゆく無情。それを、経済成長期の都市開発と、レイチェル・カーソンが憂いた森林破壊に照らし合わせる。
野山があって河川があって、そのあいだに鳥獣がいて人がいる。人を化かす狸がいる。妖怪もいる。そんな自然と人が調和した風景が消えて久しい。本作は、それにもう一度目を向けさせようとした。しかし、公開当時の日本はバブル崩壊を引きずる暗黒。狸たちの「ソイヤッサ!」の掛け声とともに語られるホラ話は熱狂の残響にかき消されるわけだ…。
ぽんぽこのストーリーは、最新の漫画絵巻を歌い上げながらヒロイズムとロマンチズムを否定し、さらには戦いのなか華々しく散るなどという伝統的な自己犠牲の果てにある滅びの美学をも拒絶していく。掲げた信念を曲げて夢見た理想を手放そうとも、すがたかたちを変えながら世の中に順応し生き抜こうとする庶民の柔軟な力強さにこそ信頼をおいているのである。
狸たちは負けた。けれど生きている。人のなかにまぎれてこのまま生きていくのだろう。誇りを捨てて、理想に裏切られて、故郷を奪われて、それらすべて自ら放棄してなお生きていく。
また滅ぼされたら、またもう一度化けるまで。その妖怪変化の変わり身は、まったくもって弱さではない。それこそ人間が本当に大切にするべき生物としてのちからだからだ。バカでいいし小ズルくていいし楽天家でけっこう。惨めったらしく死ぬな。生き物は生きてりゃ偉いんだ。ゴルフ場の人工芝の上だって、ここがふるさとだと笑おう。