ベイビー

他人の顔のベイビーのレビュー・感想・評価

他人の顔(1966年製作の映画)
4.2
安部公房原作・脚本。勅使河原宏監督作品。音楽、武満徹。出演仲代達矢、京マチ子。

ずっと昔から観たかった作品。レンタルはもちろん、セルでも探していたのですが全然見つからず(一度中古で、勅使河原宏監督作品DVDBOXが60,000円で販売しているのを見つけましたが)、半ば今作を観れる日が来るとは思っていませんでした。

暇を持て余しなんとなくYouTubeを検索していたら今作を発見。不正アップロードだと知りながらも、欲望が勝り思わず視聴…

相変わらずな安部公房の文学的表現。
そして勅使河原宏監督の余韻が残る演出。

この複雑に入り組んだ社会に於いて、自分が自分であるということを証明するには、自分自身の中に確かなアイデンティティを保ち続ければなりません。しかしある日突然、自分が何者でもなくなり、他人が自分を認識できなくなってしまったとしたら、自分のアイデンティティを今までのように冷静に保つことはできるのでしょうか。そもそも本当の自分とは一体何処にあるのでしょうか…

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職場の事故で顔に重度の火傷を負ってしまった主人公。その爛れた醜い顔を隠すため包帯をグルグルに巻き、自分の不幸を嘆きながら周りに不満や愚痴ばかりをこぼします。

自分の顔が醜いあまり、他人の視線を気にしてしまう主人公は、次第に周囲から心を閉ざしはじめます。その上この醜い顔のせいで妻は自分への愛を失ったと決めつけるようになり、その卑屈さあまり孤独の一途を辿ろうとしています。

主人公はのっぺらぼう。人は持って生まれた"顔"があり、その顔が自分という存在を証明するアイコンとして一生付き纏います。しかし自分の顔を失ってしまえば、他人は自分を認識する術を無くしてしまいます。

それは誰でもない自分。いくら自我が自分は自分のままだと認めても、他人は顔を失った自分に対し、過去の自分のまま受け入れてくれません。顔を失くした瞬間から他人との関係性も変わり、存在を失ったまま自らを孤独に追いやるのです。

顔を失くし、自分を失くし、異物として社会から弾き出されそうになる主人公。彼は野心家の医師の提案で、精密な人の皮膚に近いプラスチック製で脱着可能で使い回しの効く人工皮膚マスクの実験台になって欲しいと持ち掛けられます。

その新しい顔は自分ではない「他人の顔」…

顔は心に反映し、主人公に今までにない自我が芽生え始めます。新しい顔を得た主人公は"覆面の姿"と"他人の顔"を使い分けた二重生活を始めます。

人が持ち合わせる自我は一つだけなのに、そのたった一つの自我にぶら下がるのは二つの嘘の顔。

本当の自分とは、本質的な自由とは…

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友愛の代償は嫉妬と裏切り
孤独の褒美は干渉のない自由

「砂の女」「箱男」に見られる安部公房作品では、主人公らに不条理とも言える設定を与え社会から隔離させます。"社会"と対比することで"個人"の存在が浮き彫りになり、"社会"から"個人"を切り離すことで、"個"の存在を自由へと解放しています。今作もそのような作品でした。

個人を特定するのは、必ずしも"顔"だけでなく"名前"も個人を示す一つの要素です。しかし、今作の登場人物の中に名前を付けられた人は誰もいません。登場人物は「主人公(私)」にとっての「妻」であるとか「医師」であるとか「専務」であることを示すのみ。そうやって登場人物に名前を付けずに間柄を示すだけに留めることで、今作の「顔」というテーマがより一層浮き彫りになっているように感じました。

現代では美容整形も当たり前のものとなり、顔のコンプレックを解消し心が明るくなり、自分に自信がついたという話もよく聞きます。とても良いことだと思います。

このように顔と心は直結し、人生や人間関係にも影響を与えるものかも知れません。顔は心を作り、心は人相を整える。人相は人間関係に左右し、人との関わりは人生に影響をもたらします。

今作はそういった現代社会のアンチテーゼのように、顔を失くし、そして「他人の顔」を手に入れた主人公の自我の変異と、その自分の自我に飲み込まれ、社会から取り残される孤独をとてもシュールに描いています。

その安部公房の世界観を見事に描ききった勅使河原宏監督の演出は素晴らしい。映像のシュールさの塩梅が程よく、診察室の異空間的表現は特に印象に残ります。

そして武満徹氏の音楽もとても良かったです。この作品の象徴となるようなワルツ。中盤とラストで流れることで音楽の感じ方も変わり、それにより作品のコントラストも際立っていました。

ああ、やはりこの作品を観れて良かった。
良い年の締めくくりとなりそうです。

ということで、今年もありがとうございました。
皆様良いお年を。
ベイビー

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