巨人と玩具の作品情報・感想・評価

巨人と玩具1958年製作の映画)

製作国:

上映時間:96分

ジャンル:

4.0

「巨人と玩具」に投稿された感想・評価

台詞がスクリューボールコメディ並の神速だが、プロットやシニカルなテーマはわかりやすく、賑やかな画面も楽しい。
ただ今まで観た増村作品と比較すると、余韻やインパクトが少ない気がしたのは贅沢というものだろうか。
キャラメル業界の話。
増村保造監督お得意のマシンガン級セリフ回し。
1.3倍再生してるのかってくらい早い。
せわしなさ過ぎて、息つく暇もない。
もう少し間があっても良かった。
テレビドラマ寄りの映画監督だからか、作風は「ながら見」できるもの。
映像を観なくても、音声を聞くだけで十分だったりする。
nicoden

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3.9
開高健原作だからか、当時にしてはモダンだ。
ENDO

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4.0
男の幼児性が遺憾なく発揮された広告屋の末路…余りに喧しくて辟易する。上司である高松英郎が覚醒剤(当時は合法)をキメて胃を病み吐血しながらも頭打ちは見えてるキャラメル販売を独占しようと部下へと『日本人であるなら働け』と呼びかける。完璧に個人を破壊された者のみが辿り着く境地。モーレツ社員の行く末が廃人となる日本…出色なのは敵会社の宣伝マンである小野道子!そのデートシーン…川口を手玉に取って海辺での接吻!エロスの化身!心と身体が乖離している猛烈な劣情を生きる糧にしてポジティブに生きて行くことの何が幸せか?高度経済成長期にして既に病む予感がひしひしと伝わる時代を刻んだ一本!(映画的に面白いかは別として)飽くなき欲望こそ人間の本質であり時には皮肉を交えて肯定し標榜する作品。善悪より個人的欲望の深化に迷わぬ人間たちに寄り添う視点こそが増村節!吐きそうだ…
開高健の小説が原作。
軽快なテンポと忙しない会話のやりとり。
野添ひとみの天真爛漫さ。
キャラメルを売るための戦略、高度成長とその結末。
「笑って歩くのよ」
ハンク

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4.0
動くキャメラ、村井博
資本主義のえげつなさ
「ヒズ・ガール・フライデー」並にマシンガンをぶっ放す作品。とにかく速い。だがこちらは、戦後の日本社会を風刺したブラックコメディーである。前半は「最高殊勲夫人」路線の良質なドラマが繰り広げられていくのだが、後半から予想外の狂気の展開になっていくのはなんとも面白い。風刺にしては説教じみすぎていた気がしたが、増村作品独特の軽快さがその臭みを打ち消している。やはり増村の映画は優等生。
移動撮影と群衆の蠢きが良い。台詞の応酬が半端ない。気付いたら終わってる。
tenta

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4.3
 社会の授業で見させられた、ザ・社会風刺映画。それも軽快で爆速で進む内容にのめりこんでしまう。それでいて96分に感じない膨大な時間を感じた。よくもまぁ1958年当時で、ここまで端的に社会の泥沼感を描けたなと痛感するとともに、毎度思うが現実社会が一向に良くなっていないということを思い知らされた。癖は強いです。

 オープニング。野添ひとみ演じる京子の写真が複製されていき、風であっという間に飛ばされる。初っ端から資本主義の大量生産/消費がここで端的に表されている。音楽もなにやら物騒で叫び声とか「殺せ」という単語とか、穏やかでない。

 台詞過多。見ればわかるが休符の挟む余地がないほど台詞が今作品を占めている。その台詞の応酬は、増村保造がイタリアでフェリーニあたりから映画を学んだ影響か。イタリア人っておしゃべりだなぁ、なんて思っていたが、今作品では日本人も負けていない。またぶっちぎりのスピードを感じる進行に対し、台詞が状況を的確に捉えて行く。説明過多とかそうした批判を超えてある種の高揚感を生んでいる。

 演技も過多。イタリアで学んだことから、新しい演技の形を日本に取り入れようと模索した監督でもある。台詞過多に加え、大仰な演技が面白い。所謂戯画化や誇張された演技だ。それは主軸の人間にとどまらず、脇役、またその脇役にまで行き届く。特に伊藤雄之助が演じた写真家は癖が強すぎた笑。また、とにかく野添ひとみの演技が可愛らしい。明らかに社会を知らない無垢さと、その後の変化の落差というか、人の変わりようも見事だった(ダンスシーンは別人!)。というか、主人公を演じた川口浩と野添ひとみは夫婦なのか。夫婦に演じさせたからこそ川口浩の無骨で無神経な男の役がより強調されているような気がする。

 世界観。今作品に出てきた「ワールド製菓」「アポロ製菓」「ジャイアンツ製菓」は架空のもの。しかし、あたかもあるかのごとき説得力がこの増村映画にはある。それはセットや細部が作り込まれていることから成り立つ。つまり現実を批判しつつも、あくまでこの映画の世界は現実とは地続きではないという態度だと受け取った。増村が成瀬巳喜男を「日本の社会をそのまま認め、はかなき小市民の「情緒」を描く自然主義的風速映画」(wiki参照)と批判したということからもわかる。増村にとっては映画は現実を肯定するのではない、批判的態度で世界を再構築するということなのだろう。

 フェリーニが「甘い生活」を撮った時、実際にあんな腐敗は無く、嘘だと糾弾されていたらしい。しかし彼は、大いなる嘘をつくことをためらわなかった。今作品から感じたのはまさにそうしたフェリーニ精神である。今作品を当時の社会そのものとして見るのは間違いだし誤解を生んでしまうだろう。ただ、現在にも通用する物語としてわかるのは、やはり主張したいことが明確に見て取れて普遍性を持ったからだろう。ある意味では現実性から距離を置くことで、普遍なる物語(寓意)をつくれたのかもしれない。

 主張はもう見れば言わずもがなだけども、課長に昇進したての合田の言葉があまりにもどす黒いので引用。「現代の人間は赤ん坊以下です、犬以下です。なぜか。彼らは考えないからです。昼間は奴隷のように働き夜は酔っ払うか麻雀かパチンコ。〜(省略)〜この空っぽの頭の中に我々は(商品名を)繰り返し繰り返し叩き込むんです」。この消費社会の行き過ぎた態度と「モーレツ社員」とサラリーマンを神話化した当時を皮肉る言葉。その加速は結局は止まることを知らず、バブルを迎え、それが崩壊して現在に至ってもなお、あまり変わっていないように思える。むしろ、こうした言葉を言語化することすらタブーな雰囲気さえある。今作品の功績とは、あらゆることを言語化して残したことだと思う。映画は静止した物事よりもむしろ、行為や言葉をとどめる力に長けていて、それは今作品に生かされている。

 ライターカチカチのシーンはスタイリッシュの履き違えだとは思った。ただ、工場やCMのモンタージュは非常に喧しく、社会の歯車がいかにノイジーであるかが思い知らされた。こういうのも、ある種の増村流の言語化/可視化であると思う。

 最後のシーン。あれはもしかしたら、この世界との決別、異星人であることの宣言であるのか。あれだけ話をぶつけあった登場人物たちだが、終始自分の利しか追求しない態度からも、そもそも本当のコミュニケーションなんて今作品にはほとんどないのだ(おそらく前半の京子を除いて)。だから、最初から宇宙人であったのだ、お互いが。あんまり正直に受け止めると人のこと信用できなくなります(現に自分はCMを斜に構えて見るようになりました)。今作品における鑑賞態度は、パラレルワールドにあるディストピアとして眺めるのがおすすめ。

 関係ないが、ワールド製菓が宇宙を付録のテーマとしていたが、現実世界にも本当に宇宙ブームがやってきて、その後、宇宙船を模して作られたお菓子が「アポロ」と名付けられる皮肉とは一体・・・。先見の明がありすぎる。
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