オリバー・ストーンのインタビューによると
「誰でもが犯罪者になる可能性はある。だから、犯罪者を見下してはいけない。
犯罪者に対し、ただ厳罰をもって対処すればいいというものではなく、犯罪を起こした原因が必ずあるのだから、それを理解することが必要だ」
みたいなことを言っている。
だから「natural born killer (生まれつきの殺人者)」なの??
・・・その意図は、この映画では伝わっているのか???
(のちにストーン監督自身もいろいろ"問題"を起こすが、これじゃ未来予言と、自分自身に対する予防線みたいにすら聞こえる(笑))
タランティーノは脚本に関し、監督と衝突し、クレジットは脚本ではなく「原案」となった経緯がある。
ではどういう点で両者が衝突したのか、細かく書くと切りがないので割愛するが、
その鍵は、やはり「暴力」を描く意味、の両者の違いだろう。
ストーンにとっての「暴力描写」は、メディアが増長していくさまを描くために外せない主要要素である。
つまり、メディアはミッキーたちの異常な暴力性を面白おかしく取り上げ、繰り返し報道して拡散し、結果、この映画のような暴動が起こった、ともいえる。
そのメディア側の自覚なき増長を描くためには、その報道対象となる暴力を描く必要があった、それも過激に。
一方で、タランティーノにとっての「暴力描写」は、登場人物たちの性格の一面を映し出すための、いろいろある要素のうちの一つにすぎない。ある意味単純。
近年のタランティーノはともかくとして、この頃の彼は、人物たちのドラマ作りをただただ楽しんでいた、と僕は考えているから。
確かに、ミッキーとマロリーだけが、この映画の中の悪人ではない、ということはわかる。
メディア側のゲール(ロバート・ダウニー・Jr)も、私利私欲のためにカメラを回し続けたという意味では悪人だという見方もできるし、
刑務所長のマクラスキー(トミー・リー・ジョーンズ)も、スキャグネッティ刑事(トム・サイズモア)も、暴力に加担しているから善人ではない。法によって裁かれていないだけだ。
だからといって、ミッキーやマロリーのことを理解し、彼らを見下さないようにしろ、って言ったって、命を奪われた犠牲者が大勢いる以上、説得力はない。
では、この映画を当時見て、模倣犯が出た、ということだが、
じゃ「彼らはオリヴァー・ストーンの映画見て影響受けちゃったんだもん、しょうがないよね」って理解しろってこと??
「暴力を暴力で制しても、何も生まれない」ということが言いたいのなら、どうしてこんなに映像のごった煮みたいな撮り方をするのか、もわからない。