ふき

インクレディブル・ハルクのふきのネタバレレビュー・内容・結末

インクレディブル・ハルク(2008年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

(六〇〇〇文字あります)
自らの実験で怪物化したガンマ線研究者のヒーローアクション作品にして、マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)の二作目。
アン・リー氏が監督した二〇〇三年の『ハルク』とは関係のない、リブート作だ。

前述の通り本作はMCUの一作なのだが、「カラッと明るい痛快なエンタテンメント」というMCUのノリが明確になってから改めてみると、本作は異色だ。
まずギャグが少ない。MCU的なオフビートな笑いや軽口は三箇所くらいで、基本的には全編がシリアスでダークなトーンだ。二〇〇八年当時は『ダークナイト』などで主流だったヒーローの現代的再解釈ものの流れで、本作は特に、のちに『マン・オブ・スティール』でやった「一人の人間が悩みに悩んでヒーローになる人間ドラマ」のパターンと言っていい。その方針は「自ら怪物になってしまったフランケンシュタイン博士の悲劇」という、ハルクのキャラクター像に相応しい。
ブルース・バナーを演じるエドワード・ノートン氏も、『ジキル博士とハイド氏』のようなハルクの二面性に伴う「自分の中の凶暴性と対峙する」という葛藤において適役だ。
バトルのライバルに同じ力を持つアボミネーションを置くと共に、ハルク的力を与える役割のライバルにロス将軍を、ベティを巡る恋愛のライバルに精神科医のレナード・サムソンを置くのも、様々な方向への葛藤が生まれる要素が期待できる。

ファミリー向け娯楽アクション映画としては、いいところが沢山ある作品だ。
本作のハルクは、大きく分けて三つの場面で大暴れする。最初と二番目でハルクの凶暴さ危険さを「モンスター映画」的な側面から描いた上で、二番目の最後でヒーローに“なる”予兆を見せ、三番目のクライマックスで同等のパワーを持つヴィランとの全面対決で、ついにヒーロー的に活躍する。この流れは悪くない。
アクション的には、特に最初のシーンが凄くいい。閉鎖空間の工場の暗闇で蠢くなにか、ニュッと出てきて兵士を連れ去る腕、人間を軽々と投げ飛ばしては工場を破壊して回る緑色の巨人、わけの分からないものに襲われて呆然とする、のちにアボミネーションとなるエミル・ブロンスキーと、モンスター映画の冒頭としてもワクワクする。
ハルクが真の意味で登場する二番目の戦闘シーンも、アクション自体は悪くない。渡り廊下ガラスをぶち壊すところは派手だし、装甲車をアメフトのように吹っ飛ばすところもハルクならではだし、特殊兵器やヘリを盾状の鉄板で切り裂くのも気持ちいい。
三番目のヒーロー的アクションも、トロントの街を使ったオープンセットで撮影した実景と、CGのハルクとアボミネーションの戦いが組み合わさって、「これぞハルク!」と言いたくなるパワーとパワーが正面衝突する迫力がある。アクションも見せ方が整理されているし、お話を語りながら場面も動いていくので単調にならないのもいい。突然「ハルク、スマッシュ!」と言い出すのも、監督が語るようにブルースがハルクを制御できるようになってきたと感じたので、それほど気にならなかった。
上記の通り、アクションシーンそのものに不満はない。「前の映画よりハルクがアクションしてる!」と楽しむことはできた。
なので、この時点で「アクション映画ファンにはオススメ!」と言えなくもないのだが……。

本作の問題は、まず「ハルクの誕生がブルースの身勝手に見える」という描き方だ。
本作は言うなれば、“二作目”の作りだ。エリック・バナ氏主演の『ハルク』のたった五年後の公開のためか、本作の四年後の『アベンジャーズ』への合流を急いだためか、「ブルース・バナーが実験を行う」「暴れて恋人のベティに怪我を負わせる」「ハルクを消滅させる方法を探るために逃走する」といったヒーロー誕生譚の前半は、まるで“前作のダイジェスト”のように省略、本作は「ブルースがハルクの治療方法を探している」ところから始まる。
原作コミックに沿っているなら、省略してもいいのだ。原子爆弾の実験室に迷い込んだ少年を助けるために、ブルースが被爆事故を起こした展開なら、「ヒーロー的行動ゆえ」という単純さで話が済む。
だが本作では設定が変わっている。ブルースは軍の超人血清再現の基礎研究を行っていた立場で、研究の成功を確信して軍に秘密で実験したことでハルクになった。それでベティとロス将軍に怪我を負わせ、軍に拘束される前に逃走したのだ。
もちろんブルースとベティには、実験するまでに様々な葛藤があったのだろう。軍とブルースの関係も単純ではないだろうし、ハルク化した時の驚きや混乱を見れば、「そんな事情があったなら、こうなってもしょうがないね」と思えただろう。だが本作はそれを全部省略して、「勝手にやって事故を起こして怪我させました」としか語っていないのだ。これでは、ハルクを治療すべく逃亡生活を送るブルースの悲劇性が正当化されない。

でもまあ“前作”がないのは構成上仕方ない。割り切って「ブルースはいいヤツ」を前提としよう。
前述の通り、本作はブルースがハルクを治療すべく行動するお話だ。もちろんハルクの「制御不能な超パワー」というのは、デメリットであると同時にハルクの本質的な魅力でもあるので、ここは根本的に解消されないのは理解できる(実際のちの『アベンジャーズ』でもそこで盛り上がるのだし)。
なので本作の葛藤は、「ハルクから逃げ回っていたブルースが、ハルクの力を受け入れてヒーローに“なる”」という部分、そしてそれを取り巻く人間関係に関わる部分になってくる。
だがここで本作のもう一つの問題、「ハルクが危険な存在と思えない」が出てくる。

本作のハルクは、かなり理性的な行動をしている。前半のモンスター映画的な戦闘シーンでも、凶暴性を発揮するのは一貫して自分に害をなす相手だけで、一般市民に直接被害が及ぶレベルでの大暴れはしない。また自分の力を認識しているためか生身の軍人を殺すこともなく、車両を投げたり公園のオブジェを壊したり特殊兵器を壊したりと、攻撃はあくまで間接的だ(ファミリー向け娯楽作品ゆえか?)。そして敵が攻撃をやめればハルクも攻撃をやめ、「だから言ったのに」「あーあ」と言いたげな表情を見せて、目立たない場所へと移動する。この描写を見る限り、ブルースはヒーローに“なる”より前に、ハルクは自分の力を制御しているとしか思えない。
それがなぜ問題かと言うと、たとえば二番目の戦闘シーン内の、ヒーローとヴィランが逆転現象を起こした「超人ブロンスキー 対 モンスターハルク」の構図が盛り上がりきらないことや、ハルクのままでベティを助ける様に「そりゃ助けるだろうね」としか思えないこと以上に、ヒーローとしての覚醒描写が弱くなってしまうのだ。

多くの物語には、「主人公が自分のダークサイドと言うべきライバルと対決することで、自分の中のダークサイドを乗り越える」という構造がある。「父殺し」と呼ばれるものだ。
本作でも、ブルースはハルクと同じ力を与えられたアボミネーションと戦うために、自分の中のハルクと向き合うことになる。その展開を意図している。しかし前述の通り、ハルクの危険性は最初から「制御可能なレベル」としか描かれないので、「ブロンスキーは力に飲み込まれたが、ブルースは打ち勝った」というカタルシスがないのだ。
これはMCU一作目の『アイアンマン』のお話を、「軍需産業の下請け町工場の社長トニー・スターク 対 不正を働く親会社」でやるようなものだ。面白さが減じてしまうのは明らかだろう。

その他の人間関係の掘り下げも、全体的に浅い。
アメリカ軍側のトップとして登場するロス将軍は、ハルクに対抗すべく打った手でアボミネーションを生み出し、制御不能に陥った挙句、事態の収束後は上から研究凍結を言い渡される。ここには「力を与える存在」としてのブルースとのライバル関係という構図があるのだが、本作はそこを描いていないので、自滅しただけに見えてしまう。
ロス将軍とベティの父娘関係は、“前作”の不在により緊張関係の原因や責任の所在が曖昧なため、感情移入するところまでは深まっていかない。結末も、ブルースを確保したロスにベティが「もう娘とは思わないで」と言い放った直後にアボミネーションの襲撃が始まってうやむやだ。
ベティの現恋人のレナード・サムソンは、精神科医としてブルースを診断する傍ら、三角関係としてブルースのライバルになるのかと思いきや、ブルースとベティが再会したあとは、なんとニシーンしか登場しない。原作にも「ドク・サムソン」として登場する大切なキャラなのに、何のために出したんだ?
ブルースとベティの関係も、微妙な距離感で一つ屋根の下で過ごしたあと、濃厚なキスからベッドシーン未遂まで進むが、最後にどう着地したのかはよく分からない。また、前述の通り現恋人のレナードがお話に一切絡まないので、正直「このベティ酷い女じゃね?」感は否定できない。

そんな具合に、モンスター映画的にもヒーロー映画的にも爆発的な盛り上がりに欠け、その他の諸要素も「こうなるべきだ」とも「このままでいいんだ」とも「考え続けよう」とも語らないまま消えていく。その結果、『ダークナイト』的なダークでシリアスなトーンにも関わらず、「自ら怪物になってしまったフランケンシュタイン博士の悲劇」キャラクター像や、「自分の中の凶暴性と対峙する」といった心理的葛藤は、描く素振りを見せながらまったく描いていない。
これならもっと明るいトーンに統一して、全編ド迫力なパワフルアクションを見せる作品に特化した方が、エンタテインメントとしてスッキリ楽しめただろう。リブ・タイラー氏演じるベティがタクシー運転手にブチ切れるシーンなんて爆笑だったのだから、その方向でも十分魅力的な娯楽作になり得ただろう。
だが本作は現状、どっちつかずの折衷でしかないのだ。

…………

以上は、事前の情報をもって観賞した時に感じた不満。
以下は、「そういやマークしてなかったな」と思ってBDで観賞し直し、更に公開前後のインタビューや、ソフトの未公開シーンや音声解説で語られたこと(語られていないこと)をチェックした上での色々。

…………

本作で一番引っかかった、ベティの現恋人であり精神科医のレナードについては、未公開シーンを見たらすぐに分かった。
まずブルースが泊まった家は、実はベティとレナードの家だった。二人は同棲していたのだ。そこでベティとレナードの「今日は一緒に寝るのはやめよう」といった会話や、ブルースが着る服をレナードに借りるベティといった描写で、三人の微妙な距離感を描こうとしていた。レナードとブルースが一対一で会話するシーンもあったし、私が期待していた精神科医ならではの会話でブルースを探ろうとするやり取りもあった。さらにレナードが軍に連絡してブルースを襲わせた件をベティに詫び、ベティがそれを許すが……というシーンも存在する。
ブルースとベティの関係についても、劇場公開版にもあるセックス未遂の後に、ベティが「事故の時に負った傷はもう痛まない」と言ってブルースの額にキスをし、関係の終わりを匂わせる描写をちゃんとしている。
かように彼らの三角関係と顛末は、撮影まで終わっていたのだ。

ではなぜレナードの存在がカットされたのか、と調べてみると、色々面白いことが分かった。
レナードは実は、ザック・ペン氏の脚本にマーベルがOKを出して製作が始まった後に、エドワード・ノートン氏のアイディアで追加されたキャラクターだったのだ。
ノートン氏は出演をオファーされたものの、ブルースの過去や内面が掘り下げられていない脚本に異を唱えていた。それに賛同したルイ・レテリエ監督と共に脚本を書き直し、それがマーベルに通ったからこそ、ノートン氏は本作への出演を決めたのだが、最終的にマーベルは前言撤回、レナードは物語の整合性を削がない程度の出番しか許されなくなったのだ。
マーベルの意図は不明だ。四箇月前に公開された『アイアンマン』がカラッとした痛快アクションで大ヒットしたため、MCU作品のトーンを統一すべく慌ててノートン氏の“作家性”を消しにかかったのかもしれない。いずれにしても、マーベルとノートン氏の間でゴタゴタがあり、編集で揉めたのは間違いない。この辺りを加味すると、ノートン氏がのちに「続編の話を待ってるけど、マーベルは何も言ってこない」と発言している理由も推測できる。MCU作品はマーベルスタジオ側が製作をコントロールすることで作品の質を保っているが、反面監督への圧力が大きく、シリーズ途中で降板する監督も出ている。そんなユニバースにエドワード・ノートン氏を大きな役で入れるのは、リスクが大きいと判断したのだろう。

その他、上記に挙げた「この描写足りてないじゃん」箇所のいくつかは、未公開シーンやロングテイクバージョンで描写されている(なにせ二三箇所もあるのだから)。二〇〇三年の『デア・デビル』のように、スタジオの都合でカットされた部分を含めたディレクターズカット版を出せば、星四くらいにはなると思う。それだけのポテンシャルは秘めている。『インクレディブル・ハルク2』を製作するタイミングに期待したい。

ところで、エドワード・ノートン氏を本作のブルース・バナー役に希望したマーベルスタジオに対して、ルイ・レテリエ監督が希望していたのがマーク・ラファロ氏というのも興味深い。知っての通りラファロ氏は、のちに『アベンジャーズ』で同役を演じることになり、ブルースはMCUで数少ない俳優が変わったキャラクターとなったからだ。
この辺りの経緯は、若いキャストを希望するマーベルを抑えて、ジョン・ファブロー氏がロバート・ダウニー・Jrにオーディションを受けさせたら大好評、作品も大ヒットした『アイアンマン』とは逆のパターンだ。
本作の主演がマーク・ラファロ氏だったら、どうなっていただろう。もしかしたら、上記で私が呈した不満点の「ハルクの誕生がブルースの身勝手に見える」という部分は、問答無用で納得させられてしまったかもしれない。一癖ある顔立ち顔付きのエドワード・ノートン氏と違って、マーク・ラファロ氏は子犬のような優しい顔なので。
あとはやはり、ブルース状態の顔とハルクの顔の親和性が、もっと高かっただろうなあ、と。ノートン氏の細すぎる輪郭線は、一時期のコミックのブルース・バナーに近いのだが、映画のリアリティラインでハルクと同一視するにはちょっと厳しい。顔も髪型も全然違うから。

まあ長々書いてきたけど、“ハルク”と名の付いた作品はぶっちゃけ、ハルクが悪人をぶっ飛ばして「ほら見たか! ハルクは超つえーんだ! ブルース・バナーを舐めんなよ悪人ども!」ってスカッとさせてくれれば、それでいいのかもしれない。
そういう意味では、一作品としてもMCUシリーズ作品としても、成功……なのかな? 失敗ではないよね?
ふき

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