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トイ・ストーリー3のdm10foreverのレビュー・感想・評価

トイ・ストーリー3(2010年製作の映画)
4.2
【巣立ち】

まさかのフィルマレビュー漏れ案件。
昔はまだFirmaksを知らなかったので、個人的にノートに感想をしたためていたや~つです。

劇場で鑑賞して「ドラ泣き」ならぬ「トイ泣き」して、帰りの運転にも支障が出るくらいにウルウルしながら帰った記憶。
さらにブルーレイまで買って家でこっそり観て、張り切って思う存分号泣。
やっぱり「トイストーリー」という物語がもつ「子供とおもちゃ」という関係性やテーマを追いかけるなら当然行き着かなければならない場所。

「4」への賛否両論が渦巻くのも仕方がないくらいの完璧な着地(ちなみに僕は「4」肯定派ですが、それは「4」のレビューにて)。きっと「4」があってもなくても今作の良さは変わらないと思う。

で、今作。皆さんは何処で泣けたかな?
やっぱりラスト?そのちょっと前のクライマックス?
きっと観た人の数だけウルウルポイントはあるんだろうな・・・。
僕は出だしの「お母さん目線の感慨」から既に泣いてましたけどね(笑)

子供の成長って、やっぱり親が一番近くで感じていて、嬉しくもあり、寂しくもあり・・。
年々その比率は逆転していくよね。

(あぁ、いつかこの子も自分から巣立って行くんだな・・・)

ちっちゃい頃は、自分の目の前だけに居てくれた我が子が、段々と肉体的にも精神的にも「自分」を作り出して行って、気がつけば目の届かないところに行ってたりもする。
親はそれをいい意味で(ちょこちょこと)軌道修正をしながらも、どんどん外の世界を学ばせる。それはこの子が「いつか大人になるため」に。

そうやって子供が少しずつ大人になっていく姿をみるのは親としては嬉しい。
だけど、やっぱり寂しい。
段々と手がかからなくなる子供の背中に(たまにはいいんだぞ)なんて言いたくもなったりする。

そんな事を繰り返しながら子供は親元を巣立ち、親は子離れを経験する。

でもこれは「トイストーリー」。主役はアンディとおもちゃたち。
つまりアンディが大人になるという過程を「おもちゃ」の視点から描いている。

親と子という関係性であれば、アンディはママの子として「子供ではなくなる」ということであり、同時にオモチャとアンディという関係性でみると「大人になる」という、一見似ているけど、実はニュアンスが異なる一瞬の境界線のような感覚が残る。
もし、最初の決断のまま、ウッディだけでも手元に残していたら・・・。
アンディはまた違った大人になっていたかもしれない。
でも、アンディは「モノ」に囚われるのではなく想いを選んだ。
徐々に心が離れてしまった「モノ」には、もはや想いは存在しないのかもしれない。

少なくともアンディを含む人間にとっては「意思を持たないオモチャたち」との意思疎通。
図らずもボニーの手を介してアンディに手を振って別れを告げるウッディはいつもと同じ表情でかっこよくアンディを見つめていた。

(あんたは俺の相棒さ!)

一瞬その光景に戸惑うアンディ。
そしてこれが自分の決断であり決別なんだと受容れていく。
それは決して「子供ではなくなった」のではなく、「大人になった」という瞬間。

(これでいいんだ)

それはアンディとウッディのどちらからも聞えてくる心の声。

第一作で「実はアンディの夢オチなんじゃないだろうか」というテイストを感じていて、第二作で「あながち、こんなこともあるかもね」ってなり
そして今作で「どちらとも取れる」ように絶妙な含みを残した終わり方にしてくれたような気がする。
要は大切なオモチャたちとどう向き合ったか?ということ。

最後、アンディはオモチャたちにちゃんと「さようなら」という事ができた。
こんな幸せなことはない。
それは勿論オモチャたちにとっても、自分自身にけじめをつけられたアンディにとっても。

だからこそ、ここで終わりにしてほしかったという気持ちもよくわかります。

僕が「4」を肯定したのは、「4」が作られた意味を模索していった中で、自分なりに納得できる答えを見つけることが出来たから。
だから、もし「3」で終わりだったとしても物足りなさは感じないし、これはこれで一番しっくりくるラストだったとも思います。


では皆さん、「また、劇場で」。
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