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バルタザールどこへ行くのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

バルタザールどこへ行く(1964年製作の映画)
4.4
No.457[あてどなく(オ・アザール)歩いたバルタザールが行き着いた先には?ブレッソンと薄幸少女①] 89点

ロバと聞いてキリストのエルサレム入城に代表されるキリスト教的シンボリズムが頭に浮かばない欧州人などいないと思うが、ブレッソンは否定している。ということは、本作品が興味深い点を挙げるとすれば、ロバに代表させる寓話ではなく、彼らを通して寓話が見えるという構造になっていることである。

本作品はロバのバルタザールと薄幸少女マリーの物語を行ったり戻ったりしながら必然か偶然か交わり合うという話だ。それぞれの話を覗いてみる。

①バルタザール
そんなロバにバルタザールという名前を付けるブレッソンはこの点だけでも天才的だと言える。
バルタザールとはイエスが産まれた馬小屋にやって来た東方三博士の一人であり、彼の末裔と主張して中世フランスで権勢を振るったレボーの領主も含意しているらしい。そして、領主がバルタザールの末裔であると示した言葉が”あてどなく(Au hasard)歩いたバルタザールがレボーに辿り着いた”となっているのだ。ただの言葉遊びかと思っていたが、そういう意味もあるらしい。

バルタザールはマリーのもとに産まれ、成長したマリーに愛されるも、その両親によってパン屋に売られ、パン屋でバイトする不良ジェラールに足蹴にされ、酒飲み浮浪者アルノルドに売られて人の運搬に従事し、彼の死によって穀物商に買われてこき使われ、マリーの借金の形に彼女の両親のもとに戻り、ジェラールに奪われた先で羊に囲まれて亡くなる。

バルタザールは総ての傍観者であり総ての被害者であった。つまり、ブレッソンは通常人間がロバに感じる”愚鈍”というイメージではなく、オーウェルが「動物農場」で描いたような”知的だが爪を隠し続けた”という感情を抱いていたのだろう。見たことあるなぁと思ったら、「白痴」だ。ブレッソンはドストエフスキーが好きらしい。

笑える話として、撮影で思うところに進まないロバに対してブレッソンは一時間ほど説教したらしい。彼らしいエピソードじゃないか。


②マリーと人間たち
マリーもマリアを意識しているのだろう。彼女の話は一言で表せば”悪徳の栄え、美徳の不幸”というサドが提示した近代的な目線を受け継いでいる。

田舎町のキリスト教系学校の校長の娘として産まれ、ロバを愛するも売り払われ、街の不良ジェラールの誘惑に屈して盲目的に彼を愛するようになり、幼馴染ジャックの求婚も断るが、やがてジェラールとも決別し、雨宿りで入った穀物商の家で手篭めにされ、ジャラールにも陵辱される。

彼女も総ての被害者であり、盲目的な恋=自身の欲望のために汚れていった彼女は最早もう一匹のロバとも言える。盲目的恋の代償として失われたマリーの"純潔"を再び見出だすことは不可能だろう。


ちなみにベルイマンは爆睡したらしい。しかもその理由は”動物は嫌いだから”という至極単純明快なもの。代わりに「少女ムシェット」は大好きとのこと。

バルタザールが辿り着いたのはレボーなのか、それとも約束の地なのか。私はどちらでもなく、永遠に彷徨い続けているんだと思う。
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