KnightsofOdessa

鉄路の白薔薇のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

鉄路の白薔薇(1922年製作の映画)
4.9
No.18[ガンスが病床の妻に捧げた恋慕の情、"運命の輪"に轢かれた男たちへの鎮魂歌] 99点(OoC)

アベル・ガンスの4時間半に及ぶ"運命の叙事詩"であり、鬼のような量のカット割り、読ませる気のない文字数の字幕、素早く激烈なモンタージュ、生き物のような機関車、鏡・陰影・オーバーラップ・クローズアップなどを用いた実験的な映像など本作品の圧倒的な熱量を組み立てる素材は列挙に暇がない。

第一部。鉄道技師のシジフはある日列車事故に遭遇し孤児となったノルマを娘として育てることにする。15年後、ノルマは美しく成長し、シジフの息子エリーにちょっかいを出して暮らす日々を過ごしている。シジフは酒浸りになり、ノルマを狙う同僚を殴り倒すまでに彼女を愛していた。シジフの上司エルザンは半年以上ノルマに言い寄っているが成果はない。ある日、シジフはエルザンに対して"ノルマを愛している"ことをなぜか告解し、エルザンはこれを使ってノルマに言い寄る。ノルマへの愛情に耐えられなくなったシジフは自殺しようとするが失敗し、ノルマはこれを"自分が生活の重荷である"と誤認してエルザンとの結婚を承諾する。エリーも遅ればせながらノルマが実の妹でないと気が付き、それを教えなかった父親を恨む。やがて、事故が起こってシジフの視力がほぼ無くなり、ヤケになって事故を起こしたためアルプスに左遷される。
第二部。シジフとエリーは山の上に引っ越し、ノルマという名をは口にするのすら禁止された。エリーは休暇で山に来ていたノルマと偶然出会い、秘密の手紙を入れたバイオリンを送る。しかし、手紙はエルザンにバレて崖で決闘することになり、エルザンは持ち出した銃で肩を撃たれ死亡、エリーも崖から落ちて死亡、ついに独り身になったシジフはノルマを拒絶する。元同僚が遊びに来て都会の機関車の発展を語る(田舎の機関車を蝸牛に重ねるショットは美しくも哀しい)。やがて、完全に眼が見えなくなったシジフは鉄道技師の仕事が出来なくなる。
エリーの一回忌が訪れ、シジフは十字架を作る。崖には総てを失ったノルマもおりシジフが完全に視力を失ったと知る。彼女はその夜シジフの家に忍び込み、シジフが機関車にノルマと名付けていたことや昔の服を取っていたことに気が付く。シジフにまた追い出されることを恐れて、彼には黙って過ごしていたが、和解する。共に暮らし始めたシジフとノルマだが、山仕舞いのダンスパーティの日、シジフは亡くなる。手を繋いで回る彼らに目を向けつつ"車輪はまだ回っているか"とトビーに訊くシーンは涙なしに語れない。

第一部は実験的な映像だけが目に付き、物語はあまり進まないので(そしてエルザンが最高にムカつくので)イライラしていたが、第二部の怒涛の追い上げが心を揺さぶり、気がつけば涙を流していた。特にエリーが亡くなって以降の物語展開は胸に迫るものがある。その分、シジフとノルマの和解は一瞬で終わってしまうのだが、それはガンス自身が物語展開に重きを置いていなかったことを示す最たる例なのだろう。同時代の作家と異なり、ガンスは映画を小説や演劇など前世紀的な芸術と対立させることも同列に置くこともしなかった。彼は映画が芸術という大きな枠の中の一つのジャンルではなく、それら総てを包括するようなものだと思っていたのかもしれない。

ちなみに、ガンス自身は映画界のエミール・ゾラを自称していたらしい。となるとルーゴン・マッカール叢書は読破していたはずで、鉄道技師と機関車といえば『獣人』だろう。その他ゾラっぽい自然主義的な描写も多々あって興味深い。話のプロットは全く異なるが、ルノワールが「獣人」を作った際も本作品を参考にしたことだろう。

撮影終了後、病床にあった妻アイダは若くして亡くなる。そしてガンスはグリフィスによってハリウッドに招かれ、前作「戦争と平和」の特別上映に参加する。大成功となった上映によってハリウッドでの監督作のオファーもあったが、今度は「戦争と平和」及び本作品の主人公を演じたセヴラン・マルスが亡くなり、急いでパリに戻って編集を終わらせた。二人の盟友を失った本作品によってガンスは永遠に記憶され続けるのである。

追記
一番好きなシーンはエリーの走馬灯のシーンとエリーの墓にトビーが語りかけるシーン。後者は普通に泣く。
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