赦すという行為について考えてみる。
どうなったら僕らは赦すんだろう。それは彼/彼女が十分な反省をしたから。それとも裁きを受けたから。彼/彼女から十分な謝罪がもらえたから。時が経過してもうそれはどうでもよくなったから。自分が年を取ったから。
でもそれらは「理由」でしかない。「理由」は本当に必要か考えてみる。理由がなくても/あっても「赦す」という行為をした場合の結果は変わるだろうか。たぶん、理由は自分に帰属するものであって相手には関係ない。そう「理由」があってもなくても結果は変わらないんだ。
この作品を僕はそう読んだ。老判事がすべてを赦してしまう過程はキエシロフスキが実際に老境に入ったからこそ起きたことかもしれない。彼は多くの犯罪を多くの過ちを多くの姦淫を描いた。それは「デカローグ」でも「ある犯罪に関する短いフィルム」でも明らかだ。でも老境のキエシロフスキは全てを赦す。
そしてまるでわかっていたようにこの映画を遺作として死ぬ。
出来すぎている。あまりに出来すぎているんだ。でもそのキエシロフスキは本当にこれを遺作として死んだ。そこにはこの世界の全てを赦してしまうのではないかという「なにか」が溢れているんだ(それは決して「愛」だけではない。愛は対象を確定するがキエシロフスキは対象を広げる。それをトリコロールになぞらえて「博愛」だといったとしてもまだ全部は言い切れない)。
最後、青の愛に出てきたジュリエット・ビノシュを、そして白の愛に出てきたジュリー・テルピーをも「赦す」。夫の死を捨て別の男に行くビノシュを、夫を性的不能だからと捨てたデルピーを。そして見ている「僕ら」を。
あなたの愛は何色ですか。
「赤」はとてつもなく力強い色だった。