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真実の瞬間(とき)のtorakoaのレビュー・感想・評価

真実の瞬間(とき)(1991年製作の映画)
2.2
赤狩りがあった時代。映画監督である主人公がフランスから帰国。長く国外にいて赤狩りの実態を知らずにいた主人公は、自身の能力と実績と人望に自信があり高を括ってもいて大して意に介さず、窮地に追い込まれる。といった話。

主人公を通して当時の様相をわかりやすく描いて説明してくれてるんだろうけど、色々わざとらしすぎて面白くなかった。

FBI暇すぎやしないか?人余ってたのか?どこからかは気のせい・勘違いのようだし、その程度のことに人員割くほどアカが問題視されてたと思えばいいんだろうけども、だとすると『トランボ』のトランボにももっと厳しい監視ついてそうなもんで、そうなると偽名使っても世に送り出せたかどうか、みたいにならないかなーとかモヤモヤするものがあった。
名の売れた映画監督(主人公の設定)と脚本家じゃ全然対応違う、トランボの頃はゆるくなってきてた、とでも思えばいいのか。

FBIの人がまた、監視してる割に本人いる可能性全く考慮してなかったかのように勤務先にやって来て「FBIだ。ここで主人公が働いているな?どんな様子だ?」みたいなこと言ってくるとか、こんなんで大丈夫なのかなーFBI。心配になる。
わかりやすく悪役的になってる脚本家(演クリス・クーパー)の妻が、女優でアルコール依存症でクレイジーな言動する人で、主人公の妻とママ友(多分)で、離婚で子供と引き離されたり悲劇的な展開に、ってのもやりすぎというか盛りすぎというか。
わかりやすさを重んじてリアリティが薄まり、茶番感が出てしまってる。古い作品だからしょうがないんだろうけどベタすぎに感じる。

主人公の次作がナシになって前渡し金返却を求められ、遣ってしまったっつって返すために家を売ることになるってのもなー。蓄えないのかい。これもわかりやすさの弊害なんだろうけど、売れっ子有名監督で子供もいて、何に遣ったか知らんけど遣い込んでて、返せと言われて困窮するとかさすがにどうなのか。
いちいち感情的に食ってかかるとこも、まー話的にも時代的にも制作年代的にもしょうがないのかなーとは思うけど単細胞て感じに思えてくるし、いけ好かない。

仲間を売りたくないのはわかるが、じゃあどうするのかビジョンも覚悟もなしに、武士は食わねど高楊枝、これでいいのだ。カッコいいー。みたいに締められても何だかなー。
こういうテキトーな感じが映画苦手な理由の一つだったんだよなー。

情報提供者の名前は伏せられるものと認識してたら名前出しちゃってて、じゃあ今執拗に名前を挙げろと強要されてその人の名前挙げたらその証言とやらの信憑性はどうなるのか訊いてみてほしかったかなー。

マッカーシーという人の写真見て、あーあの人がマッカーシー役だったんだなーとわかるぐらいには似せてた。

クリス・クーパー出演作ゆえ鑑賞。
彼のシーンから始まる。序盤に出てくる役者の演技の印象て大きいもんなー。そこに彼を起用したくなるのわかる。わかるぞ。
演じようとはしていない(ように見える)演技、過不足ない表現。やり過ぎにならない加減を心得てる芝居巧者だと思う。
ロバート・デ・ニーロとの掴み合いは演技面でもクリス・クーパー圧勝に見えた。やってやるぜ・圧倒してやるぜ的なものが見える主人公の勢いに気圧されもせず対応し素の役者部分を見せないクリスに惚れ惚れして3回ぐらいリピートした。ああもうクリスー。

その冒頭の字幕に違和感あって早々に吹替を確認してみた訳だが。
字幕:「勘弁してください
泥の中を這い回るような見苦しいマネだけは…」
??主語も何を言いたいかもボケててよくわからないし、何かがおかしい。
吹替:「頼みますよ……そんなことはできません。これじゃ泥沼だ。」
文字数制限あるはずの字幕より簡潔だった。
そして「など!」で確信していた。戸田奈津子だなと。
字幕:戸田奈津子
吹替翻訳:永松真里
ここ以外は多分大丈夫だった。
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