大地がいくら揺れようが、観られた(時代)という揺れに波長を合わせていくように、微動だにしない映画もあります。 フランソワ・トリュフォー「大人は判ってくれない」
ある大病に見舞われた28年ほど前のちょうど今頃の初夏に初鑑賞。
病室のベッドでした。
DVDなどまだなく、病室にVHSのビデオデッキを持ち込んで。
おそらくは、その病院のベッドで横たわる患者さんたちが、それぞれ自分しか見てないと思って見上げている(雲)というものが、私たち一人一人に、何事にも代えられない時に流れや、そこから派生する運命と言うやつを、ごく自然に、すんなりと、真夏の石清水のように気持ちよく飲ませるように、ジャン=ピエール・レオ―が少年院から監視の隙に脱走して、野を越え、海へ、海へ。初めて見る大きな海辺で立ちつくし、ふとこちらを向いたまま動きを止めたシーンが我身に溶け込んできました。
長くなった日脚(ひあし)のことに思いを巡らせ、清遊した一夜を追懐するかの如く、雲と共に天空を漂うような想いでしたね。
観終えて、トイレに行くため、病室の壁を掌で触れながら歩いていると、小さなつむじ風が弱った体の中で「まだまだ、朽ち果てるわけにもいかんぞ」とでもいうような沸き上がる余韻。
今でも深夜、トイレに行くとき思い出すことがあります。
このデビュー作を含めたトリュフォーがまだまだ私の中で死んでいない所以です。