カラン

アメリカン・ビューティーのカランのレビュー・感想・評価

アメリカン・ビューティー(1999年製作の映画)
5.0
物質社会の末路や家族という虚構の崩壊、その他何であれ、現代社会の異常さのブラックな批判のように受け取らている映画だが、タイトルのまま受け取りたい。この映画の人物たちは常軌を逸していていると言えるほど、例えば、今の日本人がまともなのだろうか?私たちがまともであろうと、まともでなかろうとも、美や性や仕事や恋といった大事なものが、どこにあるのか?を探求する映画である。


目を奪われるような美しさ、そういう美に出会いたいと誰でも思っている。

一心に見つめて、見つめているそのまなざしと全自分が同一化する、我を忘れるような特別な瞬間を、誰もが体験したいと思っている。恍惚と見とれている子供は、我を忘れている。だが、さっちゃんが自分のことをさっちゃんと呼ばずに「私」と呼んだ瞬間、幸か不幸か、我を忘れることが出来なくなる。

エクスタシーとは、快感のことではない。EX-STATE 、外に-いること、つまり自分の外、忘我のことだ。快感が気持ちいいと感じることならば、それはエクスタシーではない。エクスタシーとは、《私》にとっては不可能な彼方なのだ。そういう我を忘れることのできない私たちの特別な夢が、この映画の言うbeautyなのだろう。

私たちを外へと奪い去るbeautyに出会うのはとても難しい。麻薬や不倫、セックスやビデオテープも一つの方法なのだろう。そして究極は死なのだろう。エクスタシーは自分を失くすことなのだから。

プロローグとエピローグはケビンスペイシーが語る。自分の物語、これは現実世界で唯一可能なエクスタシーなのかもしれない。夏目漱石の『こころ』で、「先生」が自殺の瞬間=「私」の懐の中の手紙になるのと同じだろう。
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