とうふくん

フォーリング・ダウンのとうふくんのネタバレレビュー・内容・結末

フォーリング・ダウン(1993年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

レイ・ブラッドベリの作品に「熱気のうちで」という短編がある。猛暑の町を歩く二人の老人が、常にイラついてる不快でガサツな中年女にとある警告をするだけの話なのだが、扱うテーマが現代的な佳作で、流石にブラッドベリには先見の明があった。ある種の暑さは人を狂わせるのだ。

とにかく作中の随所に間断無く不快な人、モノがゴテゴテと、しかし効果的に陳列される。観ているこちら側は不快な対象にイライラさせられつつ、それを粉砕していく主人公の滅茶苦茶な言動を笑い、痛快に思い、共感さえ覚える。一種のブラックコメディのようだ。だが度を越した狂的な憤慨に次第に違和感、やがて恐怖を感じるようになる。この緩急が巧い。

舞台が1991年のロサンゼルスというのが面白い。本作は奇しくも92年に起こったロス暴動の翌年の作品で、ビルが最初に襲撃した店の主が韓国人であることも無関係とも思えない。ロサンゼルスという町全体が抱える憤懣を明確に刻む、時宜に適った一作だ。ただし、これは別に人種間の対立を扱っている訳ではない。怒り狂ったマイケル・ダグラスのインパクトに隠れがちだが、アメリカが建国以来叫び続ける自由の矛盾と歪んだ構造について深く切り込んだ作品なのだろう。ただ誕生日に娘と会いたいという希望だけを胸に猛暑の中を歩き続ける男。夫と別れて娘と二人で暮らす自立した女性。幼い娘を失い、壊れかかった家庭をなんとか支えようと自分を殺す退職間際の刑事。いずれも自由と尊厳の渇望者を描いている。違うのは彼らがそれぞれ取った行動だけである。

主人公ビル・フォスターはレンズの大きい黒縁メガネに髪を短く刈りこんだ中年サラリーマン風。彼の母親曰く「共産主義から国を守る」軍需産業に長年勤めていて、よく言えば生真面目、直截に言えば神経質で凡庸な、まるで黄金の50年代から抜け出たような中年白人男。酒も煙草もドラッグもやらないし暴力も振るわない。聞いた限りでは理想の父親だ。だが元妻は別れた。警官に元夫のことについて尋ねられた際、ぎこちない沈黙が残るのが印象的。別れた夫に強い拒否感を抱いているにも関わらず、彼の怖い点を挙げることができないのだ。作中でビルの持つ狂気の正体については段階的に明らかにされていくが、娘を撮ったホームビデオのシーンで克明に浮かび上がる。そして真実を知ると新たな恐怖が加わる。それまでのビルはただ「暑くてイライラしてた」からというだけで不可解に怒り狂い、銃を乱射して当たり散らすイカれた男だった。つまり常人には到底理解し難い狂気だったのが、誰もが持つフラストレーションの蓄積を「偶然に」爆発させた男だということが判明する。これは映画を観ている側からすれば当たり前のことのようだが、ビルの怒りは飽くまでも普遍的で、実は観ている我々と同じ土台に立つ男だと気づいてくる。怒りをただ感情の赴くままにに発散するとこうなるのだ。これは怖い。

ビルの理性が段階的に崩されていく過程を丁寧に描いている。彼は本来自分が持っていた物(=理性の象徴)を次々と喪失し、まるでわらしべ長者のように狂気の副産物を得ていく。彼が失ったのは車、50セント、アタッシュケース、白シャツにネクタイ。穴の空いた革靴。その代わりに得たのはコーラ(&バット)、バタフライナイフ、マシンガン、軍服、軍靴。そしてバズーカ。思えば彼を攻撃さえしなければ南米移民もネオナチ男もあんな目には逢わなかったのだ。軍のディスカウントストアで自分の映る鏡を割るのは使い古されたメタファーだが、マイケル・ダグラスの怒りに満ちた無表情が良い。
ビルの実家のシーンがまた良い。ガラス細工に夢中な母親はまるでT・ウィリアムズの「ガラスの動物園」。掛かっていた筈の写真(絵?)が外された痕跡。生活感のないどこか殺風景な部屋。びっしりと書き込まれた几帳面なノート。そして父親の不在。シリアルキラーのご自宅訪問のようだ。

バーガー屋で店員たちがビビりまくってる店長に次々と注文品を渡していくのが緊迫した状況と妙にチグハグで笑える。日本でも商品の誇大広告はしょっちゅう見かけることだが、いくらなんでもそのハンバーガーはぺちゃんこ過ぎるだろ。素直に手を挙げる少年にまた笑う。イカれた街ロサンゼルスを描写する上で、映画と現実を混同する子供がビルにバズーカの発射方法を指導したのも忘れ難い。この街はおかしい。日本人ならずアメリカ人でも不気味な印象を抱いたのではないだろうか。

ロバート・デュバル演じるプレンダーガスト刑事を除いた警官の殆どが無能だらけで観ている側としては非常に苛々させられるのだが、彼はもう一人のビルだ。未熟で愚か者の若い同僚や厭味な上司からバカにされてもただ苦笑いを浮かべるだけの爪弾き者。社会から疎外された存在。ただし、ビルとは違い公僕で、社会から脱落しなかった。そして強い理性と信念を持っている。些細なようだが、この違いは大きい。そして彼は正しいキレ方を実演して見せる。言いたいことはその場で言ってしまえばいいのだ。然るべきところでは殴る。理性を喪失するよりはマシだ。

立て籠もった美容整形医の邸宅で教養はあるが手に職のない、時代遅れの存在と自嘲するビルの姿に思わず涙が出る。ささやかな、だが彼にとっては命にも代えがたい幸福さえ維持できなかった惨めな男の悲劇的な吐露だ。あなたは病気だという妻に対して町は異常者だらけだと嘯くビル。繊細な”D-フェンス”ビルはただ自分の最後の砦を守っているだけなのに。その拠所を奪われるとどうなってしまうのか?決して対岸の火事ではない。白人至上主義のおバカなネオナチ男が頻りに俺と同類だと喜ぶが、ビルの憤怒はそんな幼稚でチャチなもんじゃない。自由と尊厳を奪われた者の、根深い、普遍的な怒りだ。ウィリアム・フォスターは炎熱に侵された特異な狂人か?否、そのままアメリカの悲劇である。

ラストショットはカウチに寝そべってテレビを眺める犬。悲しげな目線の先には娘の1歳の誕生日だと思われる、子犬をプレゼントするホームビデオが映し出される。妻と子と犬。絵に描いたような幸せな家庭。何とも遣り切れない。