Lalka

臨死のLalkaのレビュー・感想・評価

臨死(1989年製作の映画)
4.7
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
伝道者の書 7章2節

作品中「死んでくれてよかった」という病院スタッフの台詞や苦痛を味わわせる延命措置についての話がある。上記の一節は「死」そのものであり「臨死」に対して語弊があるとも取れるがこういった意味で挙げたと断っておきたい。換言すれば、始まりである出産も存在する病院という場に於いて末期の患者を記録として観るのは大変意義のあることだと思うということだ。

実は初めてのワイズマンであるのだけど、彼や想田の説明の撤廃はとても良いものだと思う。「誰が誰だかわかんねえ」「この人何してたんだっけ?」と思ったっていいじゃない。鑑賞者それぞれに伝わるべきことは必ず伝わっているのだ。

人間の集中力は残念ながら1時間と持つものじゃない。故に一瞬も見逃せないとか一分の隙もないとかは言わない。そんなことを言ってしまうのはやや押し付けがましい。そりゃ1時間で寝る人だっていることでしょう。ならば言えるのは作りとして無駄がなく、引き込まれた者を離さない魔力をその作りのうちに有しているということだ。編集により残った映像と台詞、興味は尽きないし6時間経ったとはとても思えないのだ。

Charlie Sperazza squeeze my hand!と心の中で思わず繰り返してしまうし、こういう人たちに診てもらいたいと思ったりもする。

冒頭とも言える時点で人の臨終を見ること。自然に楽しくしているだけかもしれないが患者の上に荷物を置く看護師の優しさ。30代男性の遺体の検視(モロクロゆえ血という余計な情報が入らない)。執拗なまでに回数を重ねる同意と選択のための医療行為の説明と「いつでも変えていい」という自由。なかなか選択できない患者。患者を愛す夫人。末期ってなんだという疑問。脳死というものの扱いと実際の意味。あらゆる要素が、あらゆる人々の在り方と見解がすべて重要なのだ。

死に近い場所こそ学ぶものは、多いし感動がある。
Lalka

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