dm10forever

ネバーエンディング・ストーリーのdm10foreverのレビュー・感想・評価

4.1
【想像が創造するキセキ】

僕は子供の頃から読書が苦手だ。当然今も。
苦手なんてもんじゃないかも・・・大人になって電車通勤するようになってから一時期文庫本を読み漁った時期は確かにあったけど、それも2~3年でマイブームは終焉。
やっぱ、俺には活字は向いてないんだな~と思ってた頃、たまたま帰った実家で1冊の本を見つけた。

「そうだ!あったわ!最後まで読んだ分厚い本が!」

そう、読書嫌いの僕が唯一最後まで、それも一気に読んだのがこの「ネバーエンディングストーリー(はてしない物語)」でした。

ま、きっかけは映画でしたけど・・(笑)。

とにかく出だしからいいですよね。リマールが歌うテーマソングで一気に持っていかれるし、典型的ないじめられっ子のバスチアンのダメっぷりも「あらあら(笑)」って感じで。
で、イジメから逃れるように飛び込んだ古本屋で出会うのがこの奇跡の本なんですね。
あの古本屋のおじさんはバスチアンにこの本を読ませたかったんだろうね。
この本の持つ力を知っていたから。そしてこの本がバスチアンを必要としていたから。

映画で一番気に入ったのは、学校の倉庫に篭って誰にも邪魔されずに本を読んでいることでした。なんか秘密基地みたいでワクワクするわ~みたいな。
でも、大人になって、あの空間の意味するものって実は違ったのかなとも思いました。一言で言えば「現実逃避」だよね。
自分のいる現実の騒音を全てシャットアウトして「本を読む」というよりは「本と一緒に逃げ込んだ」というほうが近いのかもしれない。でも、それがバスチアンの心の逃げ場だったんだとしたら、それはそれでよかったんだと思うけどね。
今になって見直すと、確かに映像的には今とは比べ物にならないレベルではある。そんな事は百も承知。
そこに引っかかってたらこの物語の本質には一生辿りつけぬぞえ。

このお話しは「人々が想像することをしなくなったら、もう何も生まれなくなる」という一見当たり前のような、だけど物事の本質を突いたテーマを寓話的なタッチで描かれています。ストーリー自体はファンタジーですけど、訴えてくるメッセージは限りなく現実的なこと。
物語はファンタージェンという国が「無」というものに覆い尽くされてしまい、このままだと本当に何もなくなってしまう。何とか「無」を食い止めなければ!というところから始まりますが、これはそのまま作者のメッセージをファンタジーのテイストで表現したに過ぎません。これだけならよくあるお話なんです。
ただ、この「おとぎ話」と「現実」とが微妙にリンクを始める辺りから、バスチアンとアトレイユもシンクロを始めます。特に映画では「無」に対抗するために物語の中からバスチアンに頻繁に語りかけます(幼心の君なんかは思いっきりバスチアンの名前を呼んじゃうし)。でも、それはバスチアンというフィルターを通して、実は観客一人ひとりにメッセージを送っているかのような、まるで「第4の壁の破壊」にも似た感覚でした。
単に台詞としてカメラ目線というだけではなく、明らかにメッセージを込めた1シーンだと思います。それがミヒャエル・エンデさんの意向なのか、あるいは監督の作家性なのかはわかりませんが・・・。
アトレイユとアルタクス(アトレイユの愛馬)が「憂いの沼」を越えるとき、アルタクスが「悲しみ」に支配されて沼に沈んでしまいます。必死にアルタクスを助けようとするアトレイユ。そして物語を読んでいるバスチアンも固唾を呑んで「見守り」ます。
この辺から観ているこちら側も「バスチアン」というフィルターを通して映画を観ている一人ひとりがその場にいるような感覚になります。
当然、映画であれ小説であれ、媒体の違いこそあれ、「作品」というものは常に何かしらの「メッセージ」を放っていて、それをオーディエンスがどのように受け取るのかという作業が延々脈脈と繰り返されてきましたが、それともちょっと違う、

「今、これを観ているあなた。そう、そこのあなたです」

と、語りかけられているような映画なのだ。まるでバスチアンを先頭に、一緒に物語の中で真剣に悩み、もがいている様な・・・。

万人が受け取ることのないメッセージかもしれない。そしてこの映画を観たからと言って全ての人に届くわけでもない。でも確実にメッセージを受け取った人はいて、その人達がバスチアンと一緒に物語の続きを想像しながら語っていく。
そう、これは『はてしない物語』だから。
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