レインウォッチャー

時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

3.5
『ベルリン・天使の詩』から6年を経た続編。前作の主人公ダミエルの相方だったもう1人の天使、カシエルもまた、あるきっかけで地上に降りることを選ぶ。

『ベル天』と比べてよりコメディ / 劇映画らしい作りになっていて、要するに解りやすい。あの滋味が失われたという声もありそうだけれど、逆に言うなら前作で敢えて明確に言語化しなかった部分を補足するような機能も果たしていると思う。
カラーの分量も増えたし、カシエルに寄り添い見守る天使(むしろ女神)ラファエラ(N・キンスキー)や、逆に付き纏いそそのかす堕天使(≒悪魔)のエミット(W・顔でキャスティングしたよね・デフォー)など、新キャラの参入で画面は華やかだ。

しかし最も大きな違いは、この6年の間にベルリンの壁は無くなったという事実だろう。当然、今作では壁の崩壊後、東西ドイツ統一後の物語となっている。
ところが、統一後であっても人々の「心の声」は決して明るくない。人々がかつて「西側」に見た夢、つまりは資本主義が、別の重圧となって人々にのしかかる。

ダミエルが開いたピザ屋は経営が苦しく、妻マリオンはバー(しかも店名は「煉獄」※1)でバイトをしなければならない。
地上に降りたカシエルは善行を積もうとするが、買い物をすれば強盗に間違われ、心の声を聴こうとすればセクハラ扱い、ようやく道が開けたかと思った新たな仕事も、資本第一のシステムが生む必要悪的な業を抱えていたことがわかる。コメディちっくな展開としても観れるのだけれど、次第に彼は心を病んでしまうのだ。(※2)

明らかに今作では拝金主義へのアラートが(若干しつこいくらい)鳴らされていて、もうひとつ重要なワードへと集約されている。
すなわち、「時(Time / Zeit)」だ。

「時は金なり」なんていう言葉を、悪魔エミットをして「時は金を食う」とわざわざ言わせて否定している。ここで思い出したいのは映画とは時間芸術とも呼ばれるということで、今作の「時」はほぼイコール「映画」と捉えることができるだろう。

カシエルが直面する裏ビジネスに、ポルノの海賊盤作りがある。当時(1993年)はビデオ文化隆盛時で、誰もが自宅にVHSデッキをもち、レンタルビデオ屋が繁盛した。
かつてアンディ・ウォーホルが芸術を「コピー」できるものに変えてしまってから数十年、ついに映像エンタメも縮小再生産的コピー&ペーストの魔の手から逃れられなくなった。

そんな時代の奔流に対する映画作家ならではの忸怩たる思いを、カシエルやラファエラの嘆きに、そして冷戦が形式上終わった後も別の何かによってバラバラにされ続けるベルリンの人々に重ねた…なんて観方は、果たして穿ち過ぎているだろうか?

ヴェンダース氏は、これまでにも『さすらい』や『ことの次第』など、定期的に「映画とはなんぞや」映画を作る傾向がある。その裏には往々にしてハリウッド的なビッグビジネス映画への愛憎があって、今作もまた「いつもの発作ですね、お薬出しときましょう」的な、持病映画に思えてしまうのだった。

ただ、今作は何もグチってヒネてフテ寝する作品ではない。
終盤、カシエルは悪に対し、仲間たちと一世一代の「嘘」によって戦いを挑むのである。嘘=虚構とは物語であり、ヴェンダースが守ってきた映画そのもの。

ラストシーンは、前作と呼応するように「出航」で終わる。
俺たちの戦いはまだこれからだ、ヴェンダース先生の次回作にご期待くださいこのヤロー!自らそう猛っているような気がする、愛らしい結びなのだ。

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※1:一言「どんな店やねん」だけれど、ここでタイトルにもなっているU2の名曲『Stay (Faraway, So Close!)』がうっすらと流れてる。

※2:カシエルが美術館でぶっ倒れるシーン、顔芸はムンクの『叫び』のよう。あの絵は本人が叫んでいるのではなく、周りの狂った叫びが流れ込んできて耳を塞いでいる図で、まさに今作のカシエルにはよく当てはまる。