フラハティ

ストーカーのフラハティのレビュー・感想・評価

ストーカー(1979年製作の映画)
5.0
深遠なる旅路へ。


映像の詩人と呼ばれたA.タルコフスキーの代表作。
そして祖国ソ連で撮影された最後の映画。
誰も足を踏み入れない場所“ゾーン”
その奥には願いが叶う“部屋”がある。
タイトルの『ストーカー』とは、ゾーンを案内する人間のこと。
作家、教授、ストーカーは、願いが叶う“部屋”へと歩を進める。

SFという要素を含みながら、人間や社会とはなんぞや?という内面世界へと広がりを続ける。
作家と教授という人類の創造性と技術性を代表する二人が、人知を越えた“部屋”へと近づくにつれ、案内人のストーカーを巻き込んだ論争を続ける。


【ゾーンという内面世界】
ゾーンという場所は生きていて、常に変動している。
さっきまで歩みを進めていた道は閉ざされ、元の道に戻ることは許されない。
この旅路自体が、人生の歩みであり、自己の探求。
願いが叶う部屋では、自己の無意識な願いが反映され、自らの愚かさを目の当たりにする。
本作のゾーンという概念そのものは、人間という本質における内面世界の寓話的なもの。
常に変動し続ける自身の内面世界。
その奥へと少しずつ歩みを進める。
及び、ゾーンというものは人生の道筋。
過去に戻ることはできず、先の見えない道筋に混乱し、ボルトを投げるように模索を続ける。
“部屋”は何でも願いが叶うとされ、それは人が人生において夢見る場所。
きっと現実世界に“部屋”が存在していたとしても、世界は平和にならない。
誰もが自分のことを考えるから。

不幸な者ほど“部屋”にたどり着きやすいというのは、何かにすがらなくては生きていくことが難しい人間の性であり、信仰心の表れ。
どんな世界なのかわからない“ゾーン”という世界は、永久に理解が及ばない自己世界と密接な関係をもたらす。


【ストーカーの存在】
ストーカーは、ゾーンから部屋へと案内する案内人のことである。
ただ、ゾーンというものが消滅してしまえば、生きていくことすら困難になる社会不適合者。
ストーカーの独白では、このゾーンの中でしか希望を見出だすことができず、今の生活に苦しんでいる。
本作を最後に、ソ連から亡命を決めたタルコフスキーだが、このストーカーの姿はやはり監督の投影のようにも思う。
映画の中でしか生き甲斐を見出だせず、それを阻もうとする環境の多くに嫌気がさしている。

前作『鏡』で、過去の思い出とともに自己を救済。
そして本作ではストーカーを通じ、映画という世界で希望を見出だした、監督の姿が見える。
本作は自己の内面世界だけでなく、社会との繋がりを持った上での作品に仕上がっているため、より深みを帯びているように思う。
教授と作家とストーカーは自己の内面を分断し、自己の世界をさ迷わせているのかもしれない。
逆に自分の世界に他者を受け入れようとしたが、上手くいかないということかもしれない。


【自然の寵愛】
水という生命の源。
水の上で眠りにつくようなシーンがあるが、それはやはり水が純粋で汚れがないからということ。
本作では人工物に溢れながら、廃墟とされている場所がゾーンとなっている。
放射能汚染という見立てもあるけれど、個人的には内面世界を推したい。
廃墟は自己の価値観及び、築き上げられてきた経験の描き。
汚れた水は、純粋さから社会に出ることで浮かび上がる汚れ。
「弱く柔い人間が強い」というのは、純粋であるからこそ、欲にまみれず幸せを見出だすことができるからなんだろうし、「死ぬ前に強く堅くなる」のは、この汚れてしまった世界に順応してしまうからなのだろう。

現代世界で生きるのは苦しい。
でも苦しみの中に幸せが見える。
人間とは創造するためにいる。
それこそが私の生きる意味。
ゾーンはタルコフスキーの内面世界そのものであり、ゾーンの世界のみ色が染まっているのは、唯一心の拠り所であるから。
だが、家族の存在は彼にとっても大きく、現実世界に希望を見出だすことができたのだろう。
まあどんな解釈でも可能だろうし、正解はないのでこの映像が好きなんだよね。


本作は希望が反映されている場合に、その世界に彩りが与えられている。
現実世界はまさに色がついていない無意味な世界のようで、ゾーンの中でしか価値がないようだ。
本作に惹き付けられたのは、やはりストーカーの独白。
憂いも喜びも。
この世界に色が染まるように。
この世界に奇跡が起こるように。
フラハティ

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