天豆てんまめ

ペイ・フォワード 可能の王国の天豆てんまめのレビュー・感想・評価

3.8
この作品ほど、テーマとコンセプトはとても秀逸なのに、あまりに展開が哀しいが故に、子供たちになかなか見せられない映画は他にない。。

天才子役ハーレイ・ジョエル・オスメント(今の姿は想像してはダメ笑)のあの全てを見通すような澄んだ瞳。アカデミー賞俳優ケビン・スペイシーとヘレン・ハントの心揺さぶる演技。そして、社会科の授業で提示された「自分の手で、世界を変えるには?」という課題に対する少年のアンサーの可能性とそのリアリティ。

それはシンプルだけどユニークな少年のアイデア。受けた厚意をその相手に返すのではなく、身の回りにいる別の複数人に贈る、というもの。これがどんどん広がっていき、ムーブメントとなっていく。言葉は悪いが、善意のねずみ講ともいえる、けれど、そこには確かな可能性を感じる。映画の中でも、現実においても。

走り出した少年はだんだん気づいていく。心に傷を負ったケビンスペイシー扮する先生も、ヘレン・ハント扮する母も、大人たちの方が分かってはいてもなかなか実行ができないということ。その一歩がとてつもなく重いことを。その少年のピュアな想いと行動力にたじろぐのは、私たち含め大人の方なのだ。「うまくいかなくても時には仕方ない」とか「人間関係はそんな簡単ではない」とか。でも、少年は諦めない。「困難だから本物なんだ、勇気を出しさえすれば、できるのだ」と、歩みを止めない。

この映画を観た後、多くの人は自分も無償の善意を行ってみようかと思いにさせられると思う。でも、物語の展開がそんな理想では終わらせてはくれない。私が望んでいなかったこの展開がおそらく現実社会で、こうしたことを勇気を持って行動することの難しさと気高さをより深く伝えることになったのはわかる。

ただ、私にとっては、1人の少年が起こす奇跡を奇跡のまま、心高らかに味わわせてほしかった、、未だに私は10年以上前に観たこの映画を消化しきれてはいない。そして子供たちとも一緒に観ることができないでいる。それを考察するために、もう一度再見するのも気が重い。そんな複雑な思いを抱かせる映画だ。

ただ、大人では容易に信じることのできない理想の世界が、少年だけは信じ抜いた。ここに可能性が宿っている。それはわかる。この映画を観て多くの人は、そんな理想は、と思うかもしれない。でも、少年のまま大人になってしまったようなジョン・レノンが歌った「イマジン」の世界を本当に現実に移そうとしたら、この映画のアイデアもまた糸口になるのかもしれない。

そして、私たちも、もし自分の手で、世界を少しでも良く変えるには、どうしたらいいのだろう?そんな問いを心に抱くだけで、世界を見る視点と明日の生き方が変わるかもしれない。そんな示唆に富んだ、生きる視点を変えてくれる可能性に満ちた映画であることは間違いないと思う。

この映画で少年が描いた理想の世界と通ずる「イマジン」の歌詞を思い起こしつつ、少年のアイデアとその勇気を観ていると、健気な気高さに痛切に胸が痛くなる。

「イマジン」

想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ

想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ

今、こんな歌を歌っている人は、少なくなってしまったかもしれない。
そんなんで現実は変わらないと。全くもって無責任だと。
でも、想像力を失ったら、後には対立的観念と政治しか残らない。

気づくと、ここたった1年ほどで、世界も日本を取り巻く状況も大きく変わってしまった。そんな時、ただの理想は戯言として排除される傾向にある。米国が煽り、北朝鮮が暴発して、日本が甚大な被害を受ける可能性に想いを馳せるより、若者含め一部の人の間では、イケイケドンドンな思想も増えているとも聴く。そこに善意に満ちた、あるいは痛みを感じとる想像力が欠けつつあるのではなかろうか。

一方で、平和的理想を声高に叫ぶ人が少なくなってはいないだろうか。
自身の感性よりも、観念的な国家主権論や大義名分に委ねてはいないか。
政治が独り歩きして、なし崩し的に時代が進行してはいないだろうか。
怖いことを怖いと言えない風潮が強くなってはいないだろうか。
恐怖をもって、恐怖を制するスパイラルに歯止めは効くのだろうか。
世界に自分のひとつの想いが影響を与えるなんて、ありえないと無力感を感じている人は多い。事実、私もそうである。

ジョン・レノンは「僕のことを夢想家だと言うかもしれないね」と言ったけど、私は昔、先輩に「夢想家になるな、理想家になれ」と言われた。ただ、時に理想家が突き詰めた先に、対立を深めているパラドクスがある。善意よりも観念が先行する恐ろしさ。正論が想像力を凌駕する頑なさ。今はそれが日増しに強まっているように思う。

私の感じていることは生易しく、甘っちょろく、無責任なのかもしれない。でも今は、この映画の少年や「イマジン」のジョン・レノンや「ライフ・イズ・ビューティフル」のグイドのような夢想家がもう一度力を持てる時代になって欲しいと心から願っている。アーティストやクリエイターが奏でる音楽や映画の世界ではその善意の想像力をどこまでも果てしなく放射してほしい。こんな時代だからこそ、そこに力を失ってはいけない、と強く思う。