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群盗、第七章のJeffreyのレビュー・感想・評価

群盗、第七章(1996年製作の映画)
3.5
「群盗、第七章」

冒頭、現代のトビリシ。車で試写室に到着する大人数人。少女が拳銃で人殺し、時代背景が変わり、中世のグルジアへ。市街地の描写へ、白馬、キリスト教徒、羊飼いの女、内戦時。今、名もなき人々の力強く生きる様を描き出す…本作はオタール・イオセリアーニが1996年に仏、瑞、伊、露、グルジアで合作した作品で、この度廃盤のDVDボックスを購入して初鑑賞したが、マノエル・ド・オリヴェイラの「ノン、あるいは支配の空しい栄光」に些か似て被る作風であった。

まず、この物語は1991年、ソ連体制の解体とともにグルジア共和国は1918年から数年かけて独立を回復した。ところがマフィア資本主義はグルジアの文化秩序を破壊し、90年代の内戦はグルジア映画産業そのものを破壊させたとの事。そうした中、愛国者の監督はあえて、グルジアロケを行い、大国に翻弄されてきたグルジアの数奇な歴史を寓話的に映画化した模様だ。本作は現実と幻想、現在と過去が交差する奇想天外な物語である。物語は4つの時代を自在に往還する。


本作は、冒頭から興味深々な描写になる。1台の車が慌ただしくブレーキをかけ止まる。そして数人の男がとある建物中に入っていく。そして中では試写が始まる。続いて、少女がマシンガンらしき武器を手に持ち動かしている。そして立ち上がり扉から出て行く。次のカットでは裸になっている男女の戯れが写し出される。そして先程の少女が裸体の女性をそのマシンガンで撃ち殺す。続いて、他の人たちも殺されてゆく(他の人たちの死に顔等は映されない)。次のカットでは外にいる女性がその銃声を聞いて慌ただしく中に入る。続いて、画面は原風景の大自然を映し出し、そこには馬やヤギ、そして2人の男女が愛し合っている。どうやら時代背景が飛んだようだ。その2人は馬に乗りどこかへ去ってゆく。

続いて、カメラは朝を迎えたとある家の中を映す。男性が寝床から起き、タバコを口にくわえ一服する(この際、外では大砲らしき音が聞こえている)。そして次のカットで兵隊3人が大砲を市街地に撃ち込んでいる。街の住民たちが野次馬になって、その市街線を観覧する。その場は慌ただしくなり、戦車まで登場する始末である。先程の男性がその戦車に乗り運ばれていく。続いて、ビルの屋上からスコープを除き、ライフルを撃つ女性(兵士)の姿、カットが変わり、カメラが山奥を映し、そこにいる兵士たちが歌を歌って酒を飲んでいる。

次に王冠を頭につけた王らしき男が群衆に手を振られ歓喜されているシーンに変わる(この時は違う時代背景に飛んでいる)。そこへ同じく王冠を頭にかぶった白いドレスを着た女性が現れ、彼女の股間部分には鉄でできた現具が鍵付ではめられている。続いて、また時代背景が交差して行く…。そうした中、様々なシークエンスでそれぞれの物語が進行していく。城の地下牢で拷問を受ける人や通販本を見るかのように、拷問器具が紹介されている書籍を見て、この拷問器具は良さそうだと話す男たちの場面等が写し出される。

さて、物語は祖国グルジアの歴史を縦横無尽に切り取った群像劇で、異なる4つの時代を往復する時空間ムービーである。


本作はグルジアの歴史における3つの時代が写し出されており、まず第1の時代はトルコとの戦いだ。まず、当時トルコ系の民族が台頭していて、オスマン帝国を建設する。そしてペルシャではサファヴィー朝が大帝国を築きあげ、その2大帝国の争いにグルジアが巻き込まれるこういった過程を第1の時代として冒頭に持ってきているストーリーである。この作品を通してグルジア=ロシアに近しい小国と思っていたのだが、決してそんなことはなくグルジア軍がトルコ軍に勝利している場面を見ていると数百年前までは立派な一国なのだなと思うも、16世紀半ばにオスマン帝国とサヴァヴィー朝の間でグルジアが二分する協約が結ばれ、西グルジアがオスマン帝国のものになり、東グルジアはペルシャの支配下になると言う事実を初めて知った。

続いて、第2の時代は20世紀前半のグルジアが舞台である。ロシア革命前夜から1930年代後半のソビエト連邦の大粛清期までを映し出しているものだと思われる。ここでは漸くロシアによるいわゆる10月革命によってレーニン率いるボリシェヴィキ勢力が権力を持ち始め、南コーカサスの3国の権力者たちがそれを承認しなかった事により、ソビエト軍がトリビシに侵攻し、グルジアはソビエト連邦に併合されてしまうと言う歴史が分かる。なので様々な痛々しい拷問のシーンや実際に起きていたシベリアへの流刑に罰せられる人々や秘密警察からの暴力などの事柄を想像してしまう。これがまさに革命と言うものであり、昨日とはまるで異なる地位に人間は様変わりしてしまい、この重苦しい空気が蔓延していくのが映画を見てもわかる。


続く、第3の時代は20世紀末のグルジアを舞台に1991年から翌年にかけての内戦とパリへの脱出したグルジア人たちの運命を映し出している。このグルジアを含めバルト3国と言われているアルメニア、アゼルバイジャンは数年前に安倍内閣総理大臣も訪れていたことをふと思い出した。この時期はグルジアでも独立の是非を問う住民投票が実施され圧倒的な支持によってグルジア最高議会は独立の回復を宣言した事は周知の通りである。そういった大統領選挙や反体制運動が巻き起こる時代である。

あらすじは現代のトビリシ→中世のグルジア→現代の内戦のトビリシ→ 1936年のグルジア→ 1916年のグルジア→ボリシェヴィキ革命後のグルジア→中世のトルコ時代→ソ連時代→現代のパリ→現在のグルジアの田園地帯…の順(途中でいくつか同じ時代に回避する場面もある)である。

この作品に限っては極力台詞を話さないようにしているのか、ほとんど登場人物が声を出さない。
そして他の4作品を連続して鑑賞したが、どの作品にも登場人物が歌を歌ったり、楽器を奏でたりユーモアあふれるシーンで埋め尽くされている。この作品なんて1人の役者が4人に扮して4つの時代を往復する。

飲み物に毒を盛って"くたばれ"と言うシーンでそばにいた鳥(オウム)が同じ言葉を繰り返す場面や、そらがきっかけで殺人犯がばれてしまったりなど、可笑しい。


この作品は一連の彼の作風の中では、最も暴力的なシークエンスが写し出されていると思う。といっても彼の作品を全て見ているわけでは無いから他にもしかしたらあるのかもしれないが、この物語の登場人物は救われない(不幸者)ばかりだ。

正直、苦手な部類の作風だったけど、監督のイデオロギーが垣間見れる点やいつ何時、時代は人間のなすことに変わりがなく、歴史は繰り返すものだと言うメッセージ性は非常に良かった。それに歴史コメディーとして考えてみれば、非常にうまくできてるんだろうなぁとは思う。んで、映画のラストの風光明媚なシーンで終わる感じはかなり個人的に好きな終わり方だ。まず、中編の「4月」を思い浮かべてしまうフレームである。夕日の当たる草原の木の下で酒を飲み焚き火をして、歌を歌う男2人の描写はなんとも切なく物寂しい画作りである。そこには牛の群れも見え鉄道の音がかすかに聞こえる…あの故郷に帰れない浮浪者たちが思いを異国の地(パリ)で歌う歌はなんとも余韻が残る終わり方だった。
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