塚本

眼下の敵の塚本のレビュー・感想・評価

眼下の敵(1957年製作の映画)
4.0
戦争。

捉えようとしても正体のよくわからん、まるで鵺のような言葉。

あらゆるメディアによる表現によって相対可能な万能のコンテンツ。

…戦争を(又はその外延)を扱った、映画ともなると、それこそ星の数ほどあると思います。「アメリカングラフィティ」すら広義の範囲では”戦争映画”の解釈が可能でしょう。

俺が”理想”とする戦争映画を一本上げるとするならば…

「眼下の敵」(1957年製作)です。 (『大いなる幻影』も、かな)

第二次世界大戦下の南大西洋を舞台に、アメリカの駆逐艦とドイツのU-ボートの知力を尽くした激戦を描いています。
それは、相手が自分ならどう出るか…の腹の探り合いによる将棋の名人戦のようなゲーム感覚の醍醐味に溢れており、駆逐艦、潜水艦、両艦の持つ特性を余すことなく駆使する際も、大上段に構えることなく淡々とF1のメカニックのように適切な差配をしていきます。

Uボートと駆逐艦の両艦長、クルト・ユルゲンスとロバート・ミッチャムが共にクールで熱い男を演じていて、突然に現れた手ごたえのある好敵手を相手に、なんだか嬉しそうです。
けどこの2人、この戦争には反対なんですね。
ロバート・ミッチャムの方は妻を戦禍で喪くしており、ペスミティックな思考を抱いていて、いつも傍らについている船医にだけには心を開いて語ります。

「…戦争は無くならないよ。この戦争が終わっても平和は長くは続かない。”男”は破壊衝動を抑えることは出来ないんだ。首を切ってもすぐに生えてくる蛇と同じさ。私はそのことを学んだのだ。」
彼は戦争を好む者を”男”と断定している。
男とはいくら反戦を唱えててもいざ戦いとなると、生来持ち合わせている闘争本能がにわかに顕現してしまう厄介な生き物なのかも知れません。
そしてここで言う蛇とは、ギリシャ神話上最凶の魔獣テュポーンを父に持つヒュドラのことと思われます。
9つの首を持ち、一本を切り落としてもすぐにそこから新しい2本の首が生えてくる。
最後はヘラクレスに倒されるが、最も彼を苦しめた怪物です。
ヒュドラの血は猛毒で、ヘラクレスはこれを矢に塗って数多くの敵を倒しますが、最後には自身もこの毒で地獄の苦しみを味わい、耐え切れず自身を炎で焼き果てることになります。
結局、史上最強のヘラクレスはこの史上最凶のヒュドラによって死に至らしめられたのですね。
ロバート・ミッチャムが”男”の持つ破壊衝動を、このヒュドラに喩えるセンスの裏側には底知れぬ諦念によって裏打ちされていることを示しているように思います。

一方のクルト・ユルゲンスもナチス支配の下、厭戦気分に苛まれおります。「我が闘争」を読んでる部下を一瞥しながら、

「…戦争から”人間味”が無くなった。」

…と呟きます。

戦争に人間味もヘッタクレもないだろう、と戦後民主主義教育を受けて育った当時中学生だった俺は凄く居心地の悪さを感じたものでした。

…今では俺も、戦争には大義のあるものとそうでないものの区別がある、と思っています。そしてそのどちらとも判断の仕様が出来ないもの…歴史のうねりに翻弄された結果、戦争という手段を取らざるを得なかったケースもある、ということです。

クルト・ユルゲンスの「人間味が無くなった。」という言葉に呼応するように、海上の駆逐艦の甲板で船医が、「この戦争は『老水夫行』を思わせる。」と独りごちる。

「老水夫行」とはイギリスの詩人コールリッジの長編詩の傑作で、内容はある老水夫がいたずらにアホウドリを射殺したことにより、呪いをかけられ洋上を果てもなく彷徨う、という物語です。

これは戦争というものが戦士、さかのぼっては騎士が行う特権的だった昔と違って、国家総動員的な…殲滅を目的としたものへ変貌した近代戦争に対する彼の心情をこの詩に託して婉曲に語っているわけです。

このように、この作品には深読みさせて止まないキーワードが何でもないセリフのやり取りから砂利の中の砂金のように流れては消えていきます。

…クライマックスは互いに致命的な損壊を食らった両艦からの脱出劇です。
救命艇を備えている駆逐艦サイドは脱出が可能ですが、潜水艦にはそんなものあるわけがありません。

ドイツ兵たちはUボートと共に沈んでしまうのか…

…なんと、ここに至ってアメリカ兵たちは救命艇を駆って海上にたゆたうドイツ兵たちの救出活動を行うんですね。
そして最後まで艦に残っていたクルト・ユルゲンス艦長が、これまた駆逐艦に最後まで残っていたロバート・ミッチャム艦長と目が合う。

背筋を伸ばして最敬礼するクルト・ユルゲンス。
そしてそれに応えるロバート・ミッチャム。

…そして…救援にやって来た船の上。

「また、死に損なったよ。君のせいだ。」と、クルト・ユルゲンス。

「それじゃ、今度はロープを投げないよ。」と、ロバート・ミッチャム。

そしてクルト・ユルゲンスは言う。

「いや、君はまた助けるよ。」

それを聞いていた船医が言う。

「私はこの戦闘でひとつ学んだよ。男は破壊衝動を乗り越えて、助け合うことが出来るのだ、ということを。」

…未来に向けた希望という名のメッセージ。

さて音楽なんですが、劇中とても大事な場面でクルト・ユルゲンス艦長自らがターンテーブルに乗せたレコードの曲です。

追いつめられたUボートは着床して海底と同化することで駆逐艦からのソナー探知をかわす手段を取ります。
水圧による不気味な軋み音と、パッシブソナー(水中探聴機)に音を拾われることを避けるべく、強いられる”沈黙”。
この2つの重責によって艦内は不穏な緊張感に満たされていきます。
それが沸点に達した時、1人の兵士が錯乱状態に陥ります。
その時、艦長は静かに彼に近づき、毅然と語りかけます。
「時に戦争は死ぬことが、仕事だ。しかし俺の仕事はお前たちを死なせないことだ。俺を信じるか?!」
男なら一生に一度は吐いてみたいセリフです。

そして艦長は一枚のレコードを取り出し、それを大音量で掛けます。
居場所が知れることのデメリットより、兵士たちの士気を鼓舞する…というよりも硬直した艦内の空気を一変させることを、最優先としたのです。そしてその歌を合唱することで相手に余裕を見せることも計算の内にあったわけです。

"Der Dessauer March"デッサウアーのマーチ、別名 "So leben wir"我らかく生かん、という曲です。
曲調はマーチですがもちろん戦意高揚的な軍歌の類ではなく、ドイツ人が宴会の時に歌うカントリーソングのような曲です。
要するに「早いとこ、こんな任務を終わらせてジョッキの泡で唇をみたそうぜ!」って感じですね。
原曲の"Der Dessauer March"は18世紀のプロイセンにおいて農業、税制、インフラ整備、手工業者の招聘といった分野で多くの改革を実行し、軍事面でもヨーロッパで最も強力な軍隊を育成させたドイツ史上において今でも人気の高い政治家、老デッサウ候を讃える行進曲で、ヒトラーとの対比としてもこの選曲は艦長の面目躍如といったところでしょう。
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