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ピアノ・レッスンのtanayukiのレビュー・感想・評価

ピアノ・レッスン(1993年製作の映画)
4.4
6歳のときに自らの意志で声を発することをやめたエイダにとって、ピアノと手話の通じる娘フローラだけが外界とのコミュニケーション手段だった。

だが、出戻った実家を厄介払いされ、スコットランドからはるばるニュージーランドまで嫁いできたにもかかわらず、はじめて会った夫のスチュアートは、エイダの頼みに耳を貸さず、ピアノを運ぶことを拒んで海辺に置き去りにする。

スチュアートは最初からエイダの言葉(それはもう1つの手段であるフローラを通じて届けられた)に耳を傾けなかったばかりか、エイダからもう1つの言葉(ピアノ)を奪うことで、エイダの存在を二重に否定することになる。それだけでも出会いとしては最悪だが、エイダに何の断りもなくピアノと土地を交換したり、戻ってきたピアノをただ「弾け」と命じるだけだったりして、そのことに最後まで気づけなかったことが、結局エイダに振り向いてもらえなかった原因だろう。

ベインズは無骨な男だが、聞く耳は持っていた。エイダにとって何よりも大事なピアノを手に入れることでエイダを我が物にしようとした行為は決してほめられたものではないが、エイダの言葉(ピアノ)に耳を傾け、鍵盤1つ1つと引き換えに、少しずつ距離を縮めていくそのやり方は、エイダの意思を尊重し、エイダのペースに合わせるという意味で、スチュアートとはまったく別のものだった。

自分の意志とは関係なく、遠く離れた異国の地にやってきて、何の面識もない相手に嫁がされたエイダにとって、自分の話(ピアノ)を聞いてくれる相手が、夫ではなく、ベインズだったのは不幸だったかもしれないが、夫ではない男が相手だったからこそ、禁じられた愛の炎は余計に燃え上がったのではないか。そのことは、スチュアートが聞く耳を持つ良き夫だったとしたら、ただ異国へ嫁ぐだけのありきたりな物語になってしまって、そもそも映画の題材とはならなかっただろうと考えれば納得がいくはずだ。

エロスの女神は、平穏無事な関係性とは真逆の志向の持ち主だ。秘め事だから人は萌える。見えそうで見えない、触れそうで触れない、そのギリギリのラインにゾクゾクするのであって、あけっぴろげにされたら、かえって気持ちは萎えてしまう。愛してはいけない相手、禁じられた恋だからこそ、人はあんなにも情熱を燃やすのだ。課された制約と越えなければいけないハードルの高さは恋の炎を燃やすガソリンだ。すぐに手に入る恋など、捨ててしまえ(嘘です)。

「燃ゆる女の肖像」とか「シングルマン」とか「キャロル」とか、エロスを感じる恋愛映画にゲイ作品が多いのは、たぶん、見ている側の心のどこかに「見てはいけないものを見てる感」があるからで、そのバイアスが勝手にハードルを吊り上げてくれるからではないか。逆に、ただの異性愛をふつうに描くだけでは物足りないので、どこかに「禁じられた恋」的な設定を設けてあげる必要が出てくる。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」も、それをNYに置き換えた「ウェストサイドストーリー」も、エドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」も、実らぬ恋を描いた物語だからこそ、長く読まれ続けてきたのだろう。すべて自由で、何でも手に入るとしたら、実は、たいしたものは生み出せない。制約があってこその創意工夫であり、制約があってこその蜜の味なのだ。

そう考えると、言葉を話せないエイダが不倫相手と恋に落ちるというのは、二重のハードルを乗り越えなければいけないわけで、燃える要素に事欠かない。もともと可燃性の高いネタなだけに、炎上必至の作品なのだ。そしてその代償に、エイダは2つのものを失う。

母親の不貞を目撃したフローラはやがてスチュアートと結託してエイダがベインズのもとに通うのを止めようとするが、すでにエイダはもう1つの言葉(ピアノ)を通じて、ベインズと心を通わせるようになっていた。フローラはこれでやっと、母親のコミュニケーションツールという役目から解放されて、自らの生を生きられるようになる。だから、これは失ったというより巣立っていったというほうが正解に近い。

もう1つの痛みを伴う代償については、映画を見て確かめてください。

△2022/11/07 Apple TV鑑賞。スコア4.4

追記:
娘のフローラも、夫のスチュアートも、エイダとベインズの愛の営みを盗み見る。視姦もハードルを高める重要な要素で、見てるだけで手を出さないほうがかえって興奮したりするもんだから、エロスの女神はホント、罪深いよねえ(笑
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