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ピアノ・レッスンのNMのレビュー・感想・評価

ピアノ・レッスン(1993年製作の映画)
3.3
3度目の鑑賞。

写真だけでしか知らない相手に嫁いだエイダ。幼い娘も一緒。
その地は未開拓で、いるのは原住民たちと、夫とその親戚のみ。

荒波を越え、船の着いた浜辺に着いたエイダと娘。
やっと迎えに来た一行は、エイダにとって命のように大切なピアノを、あまりに重く、ぬかるんだ森の中を運ぶのは不可能だからと、そのまま置き去りにしてしまう。

夫は、エイダにとってピアノがどれほど大事か理解しない。
夫も不理解だが、その差別的な親戚の様子を見ると、環境がそうさせたのかも知れない。

美人ではあるが、痩せ型で、声が出ず、子持ちでもあるエイダに目を付けたのは、ほかにこんな土地に嫁いでくれる人がいなかったからやむなく妥協しただけでは、とも思える。

スチュアートは、良い悪いというよりも、ただ思慮が浅く世界が狭いために、エイダを理解できない。彼はおそらく、ずっと良い子として育ってきたことだろう。
ただ、腫れ物を触るように、気を使い距離を保ち続けるだけでは、彼女の心は開けなかった。悪気はなく、長い期間をかけて慣れさせるつもりだったのだろう。
その我慢が無駄だったと知ったとき、ショックを受けるのは多少は分かる。

葛藤を通して、最後に冷静な判断を下せたのは良かった。

このように三人が、様々に態度を変容させていくのはこの作品の魅力の一つ。
人間は一面だけではないし、考えも日々変わるもの。

反対にベインズは、ただ音楽とエイダを一目でとても美しいと愛情を感じ、手段は強引で荒々しいが、すぐさま率直に伝えてくる。駄々をこねる子どものよう。じっと見つめ、そっと触れる。
言葉少なに。気の利いたことなど言えない。それがかえって彼女に伝わった。

誰も来ない山奥に二人きり、声の出ない女などすぐにどうにでもできるが、彼は少しずつ少しずつ要求を通していく。むしろその時間も大事にするように。

最終的に強引な手段に及ぶのはスチュワートの方だった。
彼はあくまで自分は悪くない、こんな行動を取らせるエイダが悪いと考えている。
愛情は歪み、エイダから尊厳を奪い、尚更不自由にしようとする。

エイダとてベインズにすぐには心を許さず、あくまでピアノのために我慢しているだけだった。
ベインズの前で夫がエイダの手を握るのを見せつけ、ベインズを精神的に遠ざける。
心も体も、あなたには渡さないと宣言するかのように。

ベインズは何日もかけ距離を縮めようとしてきたが、ある日彼女の尊厳を傷付けていることに自責の念を感じ、レッスンをやめてしまう。
そこでついにエイダは、彼に抱いているのは嫌悪ばかりでないと気付く。
いつのまにか彼の真っ直ぐな愛情を待ち望む自分がいた。

何度も斧が登場し、子どもたちの演劇も『青ひげ城』を使ったのは、あのシーンを印象付けるために他ならない。

それを上回るほど、ショッキングなラスト。まるで一度死んで生まれ変わったよう。キリスト教の受洗を思わせた。

彼女の心の声は、声を失った6才頃のものであることが印象的だった。

浜辺でピアノを弾いたとき、娘の、海藻を拾って浜辺で踊る姿が美しかった。

ブロードウッド……エイダのピアノのメーカー。John Broadwoodは、イギリスのピアノ製造技師、チェンバロ製作者、ピアノメーカー、ブロードウッド・アンド・サンズの創業者。
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