レインウォッチャー

小さな恋のメロディのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

小さな恋のメロディ(1971年製作の映画)
4.5
ひとつのオリジン・オブ・尊み。

洗われる…税金とクソリプに赤黒く濁った血液が、千年間手付かずだった雪が初めて陽にあたってできた泉のごとき透明に置き換わって全身を巡り、眼球からダイヤモンドダストとなって天へ昇ってゆく心地だ。

シンプルなボーイ・ミーツ・ガールでありつつ、ただファンタジックなだけでなくしっかり大人への反抗を根っこに混ぜ込んでいて、さすがパンクの特産地・英国品質。

そう、大人の言うことなんてラテン語と同じくらいわからないし、そんな先のことは想像できない。少年少女たちが食卓に座るとき、周りの親や親戚たちの会話は本当にくだらなく見えて、それはダニーのような中産階級でも、メロディやトミーのようなワーキングクラスでも変わらない。
「昔の人とは話さないからです」「いま一緒にいたいのがなぜいけないの?」
これらの問いに大人が反論する術は「大人であること」しかなくて、敵うことができない。そしてわたしはあらためて気づく、逃げて終わる映画って好きだなあと。

そして、今作はもちろんタイトルにもあるように少年&少女(ダニー&メロディ)の箱庭的な、踏み入るだけで壊れてしまいそうな恋が描かれる作品で、メロディの愛らしさといったらそりゃあ初登場時にハープくらい鳴ろうとも、と思える。
そして流れるビージーズの『Melody Fair』、「人生は雨でなくメリーゴーラウンドさ」…何なの、なんで今日までわたしはこんなキラーな文句を知らずにのうのうと生きてこられたのか。人生の半分を拾ったような思いだ。

しかし同時に、いやもしかしたらそれ以上に、どうやら今作は少年&少年(ダニー&トミー)の物語でもある。あるよね?あるのだ!

劇中では女子たちがミック・ジャガーにキャーキャー言うシーンがあったりするけれど、いかにも不良ぶった、しかし芯にはイヌ科っぽい茶目っ気と情の厚さを秘めたトミーのイメージと重なるところがある。
そんなトミーと危なっかしいくらいピュアなダニー、クラスも違う二人の取り合わせ、メロディが間に入ったことによってあっけなく崩れる均衡は…そんなケのない野郎のわたしだって、脊髄反射で涎くらい垂れようというものだ。

これは完全に、萩尾望都あたりと同じ魂の色でできた世界であると理解した。この映画の公開が1971年、まさに時代を同じくして、後を追うように『ポーの一族』72年、『トーマの心臓』74年…と続いていく。
今作は英米ではコケてしまった一方、日本ではヒットしたという。この時代、おそらくこの国では「何か」が芽生えていたのだろう。この開かれた扉に誘い込まれ、いったいどれだけの少女たちが人生を狂わされたのか…と考えると慄くが、今作もまたその一端を担っていたのかもしれない。

ひとつ確かなのは、いつの時代も制服って正義ということ。わたしの読んだ聖書では、神が人の次に作ったものはソックス・ネクタイ・ローファーの三種の神器だった(邪教)。

ところでダニーとメロディが墓地で齧ったのがエデンのリンゴだとするなら、トミーは蛇の役目だったのか。前から蛇ってヒトのために損な役回りを被ってくれたなと思っていたのだけれど、今作のトミーを重ねるとより一層、という感じだったりした。