レインウォッチャー

スモークのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

スモーク(1995年製作の映画)
3.5
読書と映画が秋を深める⑨

村上春樹と柴田元幸の共著(対談集かな)『翻訳夜話』の中で、この映画の原作にあたる小説を両者がそれぞれ訳す企画が行われている。

翻訳も多く手がける創作小説家である村上氏と、翻訳家で教育者の柴田氏、両者の訳は同じたった数ページに収まる掌編においても登場人物との距離感や拾い上げる情感の温度などが異なり、翻訳の奥深さ("もっとも効率の悪い読書")とたのしさ("極端に濃密な読書")を伝えてくれるものだ。

同時に、映画もまたひとつの翻訳といえるのかも。などと思い当たった。

今作の場合、原作者であるポール・オースターが脚本にも参加しているから少々事情が特殊ではあるものの、それでも文章という媒体からいくらかの扉をくぐった先にある結果であることには変わりない。それに、いわゆる原作のない映画にしても、元の脚本や監督の頭の中にある世界と表に現れた作品は決して同じものではないだろう。

『翻訳夜話』における村上氏の発言に、こんな一節がある。

"僕は翻訳というのは、基本的には誤解の総和だと思っているんですね。"

最終的に重要なのは、誤解の集合が全体として一つのまとまった方向性を示していることだという(これを「偏見」とも表現している)。

これに乗っかるならば、映画も、更にはそれを観て受け取る行為もまた「誤解」でできているのかもしれない。そして偶然の巡り合わせか、この物語自体にもどこか通ずるマインドがあるように思える。

原作は、小説家である「私」が、タバコ屋の店主であるオーギーという男から小説のネタにする為にある「クリスマスストーリー」をきく、というものだ。その話は奇妙で、ボタンをすべて掛け違えたような不格好さがありながら、誰もがクリスマスらしいと思える体験談だった。

しかし、原作においては最後の最後に「私」は一抹の疑いを抱く。要するにホラ話じゃあないのか?という疑念なのだけれど、しかし同時にもはや真偽の追求などに意味はないことに気づく。それが優れた「物語」のもつ力だ。

映画では(当然2時間の尺にしないといけないのだし)最終的には同じエピソードに到達させつつ、オーギーや「私」(映画版ではポール)の周囲を膨らませて群像劇めいた形に仕上げている。まるで観ている自分もオーギーのタバコ店の常連かのように思えるほど、彼らについて「知って」しまうため、原作のような心地よい歪みは減じた印象がある。全体としてより人情ドラマ的な落ち着きを見せた感もあるけれど、それがこの映画の、そしてわたしの誤解なのだろう。

さて、この映画の冒頭近く、ポールが「煙の重さを計る方法」について語る場面がある。吸う前に計っておいたシガーの重さと、吸い殻の重さとの差分が煙(SMOKE)の重さだという。

物語が真実か嘘か、良いか悪いか、喜劇か悲劇か…
それは、受け手の誤解を経た後には決められない。まさに煙の重さのように、空中に消えてしまったもの。しかし確かにそこにあって、そして感じた旨味であるもの。大切なのは、「こんな味だったよ」と伝えて余白を分かち合うことなのだ。

まことに甚だしく思い上がった表現になるけれど、ここに書き散らかしている文章も、少しでもわたしの誤解の味を表せるものになっていて、通りがかった誰かを誤解させられたらこの上ない。

しかしひとつ問題なのは、わたしはタバコを吸わないということなのだ。(村上春樹ってこんなこと書きそう)(なイメージ)(怒られそうだな)(ごめんなさい)

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コロコロしたマリンバを中心にした劇伴が心地よい。このニューエイジぽい感じ、90年代の映画でよく聴ける気がするのだけれど、時代の流行りだろうか。
挿入歌ではトム・ウェイツとスクリーミン・ジェイ・ホーキンス、という音楽史上2大ダミ声神様がフィーチャーされているのも見逃せない。彼らの声は聴いてるだけで喉が煙で灼けてくる。マネして喉を枯らす、までがセット。

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いま調べてたら、オーギーってトム・ウェイツがやる予定だったの!じゃあ100パーの大法螺になっちまうじゃあねーか…