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ダークナイトのレクのネタバレレビュー・内容・結末

ダークナイト(2008年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

バットマンとジョーカーの対立を介して英雄的行為と犯罪行為の二面性、秩序と破壊を描く。

どうしても犯罪行為側、ヒース・レジャー演じるジョーカーのインパクトが強く悪役に目が行きがちだが本質はそこではないと思う。
もちろんジョーカー大好きなんですけどね。
ヒーローは嘘をつかなければならないということが根底にある。

前作で描かれた英雄的行為における正義と悪の境界線、暗黒の騎士という英雄が"自らに課すフィクションからの脱却は不可能だ"とするメッセージをこの結末が全て物語る。
例えばマスクで正体を隠すなどの偽りからの脱却(マスクを取って素顔で英雄を名乗ることなど)は不可能だと言っているようにも思えるんです。

今作はトゥーフェイスが犯した殺人の罪をバットマンが負うことで幕を閉じます。
トゥーフェイスであるハービー・デントを公には英雄、光の騎士として死なせること。
それによって、バットマンは暗黒の騎士として自身の公衆での評価や認識が180度変わってしまう。
このラストを描くことによって、再びバットマンが現れた時、その行動が正義か悪か、英雄的行為か犯罪行為の区別ができなくなる。
その二面性を同時に我々観客に認めさせることになるんですよ。
それが真実と虚偽の融合なんです。

「ダークナイト」とほぼ同時期(2008年)に公開されたジョンファブロー監督作「アイアンマン」と比較するとわかりやすい。
あと「インクレディブル・ハルク」もか。
アイアンマンの場合、恐らく英雄的行為がたとえ法を犯す超法規的な暴力であっても劇中で肯定される。
ひとつの大きな要因はトニースタークという人物の認知とアイアンマンが絶対的ヒーローとなるから。
正義のために必要であり、だからこそ正当化され、それがなければ正義が悪に打ち負かされてしまうという保守的とも取れる形を取らざるを得ない。
MCUに関しては後にルッソ兄弟の「シビル・ウォー」でその辺に言及する形になるんですが。

それを踏まえた上で、バットマンは「バットマン ビギンズ」でのリーアム・ニーソン演じる悪役ラーズ・アル・グールや「ダークナイト」のヒース・レジャー演じるジョーカーとの対比にもなる。
バットマンは正義のために法を犯す超法規的な暴力も正義として行使する。
ラーズは大義名分のために己の正義のために犯罪行為を行う。
ジョーカーは法と犯罪の間にある不均衡な部分、言わば犯罪は法律という牢獄に囚われた服従の悪であり、それに抗うものとして一般人から切り離されたヒーローという存在とは真逆の存在として描かれる。
これらはバットマンが銃を使わない、殺人を犯さない理由をこの観点から解釈できると思うんですよね。
まあ実際には警官何人か死んでそうですが。

またバットマンはヒーロー、主にマスクというフィクションで自分というアイデンティティを覆い隠している。
一方で、ジョーカーはDNAや指紋の記録もなければなんの情報も持たない。
彼は自らの正体を巧みに隠しているのではなく、隠すべきアイデンティティがないことを示して、バットマンとの対比を描いているんです。
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