Jeffrey

子供たちの王様のJeffreyのレビュー・感想・評価

子供たちの王様(1987年製作の映画)
4.5
「子供たちの王様」

〜最初に一言、旧ソ連の映画(タルコフスキー)を彷仏とさせるかのような圧倒的神秘、幻想主義の映像に加え、文革への静かなる批判とともに写し出される、文革への確かな答え。そしてなぜ中国では周期的に破壊が起こるのか、それら全ての困難がこの映画ー本に凝縮されており、終盤の野焼きには多大なるショックを与えられてしまった。正に陳凱歌の頗る傑作である〜

冒頭、時は文化大革命の真っ只中。経験のない青年が山奥の学校に赴任してきた。教科書もない悪劣な環境の中で、思想を詰め込むだけの教育、疑問、子供たち、言葉、作文、辞書、丸写し、授業。今、神秘的で幻想的な大自然の中を生きる者達へ…本作はカンヌ国際映画祭正式出品され、ユネスコ教育賞を受賞した一九八九年に陳凱歌(チェン・カイコー)が監督した、長編第三作目にして、文化大革命を猛烈に批判した秀作で、この度廃盤DVDを購入して初鑑賞したが傑作、と言うか野心的傑作と言った方が良いかもしれない。中国と言う国の像までも描いている。こちらも近日YouTubeにて中国映画特集で紹介したいと思う。さて、原題名の"孩子王"(ハイツーワン)は、子供たちの王様と言う意味で、生徒が教師を嘲って呼ぶ言葉であり、雲南の国営農場で監督と共に過ごしていた阿城(アー・チョン)の作で、彼はそれ以前にも下放青年を描いた「棋王」「樹王」を発表しており、本作とともに三部作として高い評価を得ていたようだ。因みに無力感にさいなまれるナイーブな表情が印象的だった主演の青年役は、棋王の映画化した作品にも出演していた俳優であるようだ(私はその作品を見ていない)。

中国には家に一夜の食料の貯えがあったら、教師にはなるなと言う言い伝えがあるようで、これはいかに教師が大変であるかを言い表しているようだ。本作の時代背景となっているのは文化大革命の時代で、あの時期は一切の文化、中国の伝統文化や西洋の文化も含めて、全てが軽視され破壊された時代である。映画の主人公は多くの青年男女同様、農村に下方(文化大革命期に官僚主義を克服しようと起こった運動。都会の知識人が農村に入って実際の労働を強制された)し、農村としての教育を受けるものであり、村で七年間暮らした後、彼は農村の中学教師に配属され、そこで彼を驚かせたのは、紙不足のため生徒たちが誰一人として教科書を持っていなかったと言うことだ。彼は一冊しかない教科書の文章を黒板に書き写すだけで、それをまた生徒たちがノートに書き写す。生徒たちは八年間もそのことを繰り返してはいるが、毎日毎日書き写す漢字のほとんどを覚えていない有り様。

そこで、この教師は教科書(当時の教科書は革命の字句で埋もれていた)を捨てて、生徒たちに字を本当に理解させようとする。彼らが将来、それらの漢字を使って手紙を書き、帳簿がつけられるようにするのだ。そしてさらには、彼らが物事に対して他人の考えではなく、自分の意見を述べることができるように、作文を書かせたりする。こうして彼は、生徒たちと友情を掴み取っていく。しかし彼は一方で、ある生徒が辞書の書き写しを始めたことに気づき、その動機が、できるだけ多くの事を覚えようと言うことだが、方法としては丸写しと変わらない。そこで教師は自問するのだ。字と言うものは、人間が作り出したものであるはずなのに、なぜ時として人は字の奴隷となってしまうのだろうか。字と言うものは、結局何のためにあるのだろうかと。ついに教育を監視する人間がやってきて、彼は学校から追い出されてしまう。その唯一の理由は、彼が教科書通り授業をしなかったと言うことである。学校を去る時、彼は生徒たちに辞書を置いて行くが、彼らにこれからは何も写すな、辞書も写してはいけないと書き残す。

そうするとこの作品を見て私が思ったのは、文字は文化存続の手段なんだなと言う事と、辞書は中華文字を大成させているものだと言うことに気づかされる。辞書と言うのは、どこの国もそうだが、文化の象徴であり全てが集められている紙の塊だ。単純な映画ではあるが、じっくりとその中身を見ると様々なものに気づかされる。この映画は見る人がそれぞれ感じる思いが違うと思う。監督の伝統文化に対する判断と人生観といったものが入っていて、表面的に見る分には単純明快な作品であるため、ユネスコが教育文化に適していると言ったことも何となくわかる。この映画は文字と辞書が本当の主役である。そうすると、主人公の青年のイデオロギーがどういうものなのかがはっきりと分かってくると思う。彼は、下放された身で、文化=教育であると思っている。そして教育者と言うものは解放者であると思っている節があり、生徒を社会の要求する既定の形にはめ込む制度を嫌っている。

だから、自由に作文を書かせ、最後に辞書を丸写しするなと言う言葉を残して去ったのであると考えられる。生徒たちが何かに頼って物事を言うよりかは、生徒たち自身に考えさせる時間を与えるのが本来あるべき文化の教育であることを監督は目指したんだなと思われる。この作品では破壊場面と言うものはほぼなかったが、なぜ中国では周期的に破壊が起こるのかと言う疑問は拭えなかった。民族の文化が衰退していくこのような破壊がなぜ許されてきたのか、この疑問が破壊の現場に立ち会った若者たちはどのように感じていたのか、それは自然の成り行きだったのだろうか、文革を否定してスタートしたはずの体制の下でも精神汚染批判や反ブルジョア自由化批判など文革を思わせるインテリの粛清が起こったのは一体なぜなんだと言う疑問もあり、繰り返される悲劇の原因は、毛沢東やその後継者といった個人の資質だけにあるものなのだろうか、社会を規定している伝統文化こそ検討すべきなのだろうか、何に反省し中国文芸界の重要なテーマとして、描かなくてはならないのか、そういった思いに駆られてしまう映画であった。それは教科書を書き写し、自分の思想の代用とする生徒がいたからだ。毛沢東語録を手に毛沢東ー人の言葉を十億の言葉に移し替えていた時代の象徴と言って良いのではないだろうか、主人公は日常生活を作文に書かせることで、自分の目で観察し、文字に記することを教えていくのだ。社会的な意義や民族の大義など、集団への帰属意識を強調するものでは無い。そういった文革への確かな答えがこの作品には表れている。長々と前振りをしたがここで物語を説明したいと思う。



さて、物語は果てしなく続く巨大な樹々。モヤがあたり一面に立ちこめ、山並みは深緑に包まれている。山々に囲まれた小高い丘の上に、牛が寝そべったような形をしたかやぶきの建物があり、その周囲には赤土が広がっている。ここが舞台となる学校である。やせぽっちと言うあだ名の知識青年が、生産隊で七年も苦しい生活を送った後、この粗末な学校へ教師として回されてきたのだ。学校の設備はひどく、紙不足と言う理由から生徒たちは教科書さえ持っていない有様であった。彼に渡された教科書は前任の先生が残していったもので、学校側からは、変わりは無いからなくさないようにと注意を受ける。だが、教員室の片隅に使用してはいけない学習教材がうずたかく積まれて、埃をかぶっていた。着いたその日にいきなり中学三年生の時間割表を渡された彼は不安に駆られ、教壇に立っても、ただぼう然と生徒たちを眺めるばかりで冷汗の出る思いであった。彼にしたところで実際には高校ー年までしか勉強を得ていなかった。

クラスの級長は目鼻立ちの整った女の子で、彼女が言うには、授業はいつも先生が黒板に教科書を書き写し、それを生徒達がノートに写すと言う。彼は憤慨していた。役人をやるのにハンコがない、勉強するのに教科書がない、勉強ってこんなにいいかげんなものか。生徒たちは席についたまま黙って先生を見つめるだけであった。その静けさの中には敵意のようなものまでも入り混じっていた。彼にはなすすべもなく、唯一できる事は今までと同様に、教科書を黒板に書き写し、それを生徒達に写させることであった。毎日が黒板を刻むチョークの音とともに悄然と過ぎ去ってゆく。彼は常に重苦しい喪失感を味わっていた。教育とは教科書を書き写すだけのことなのか、強烈な不安に駆られ、彼は教科書を捨て去る決心をする。生徒たちに改めて字を覚えさせることから始める。生徒たちが、自分で将来字を使って手紙を書き、帳簿付けられるようにと思ったのだ。

さらに彼は生徒たちに作文を書かせた。写すのではなく、自分の力で文章をかかせようと考えたからだ。生徒たちの表現力は徐々に進歩し、先生との間にも信頼関係が生まれていく。授業に笑い声が聞かれるようになったのだ。ある日、校舎の梁を換えるために全員が竹切りに行くことになった。生徒たちの間では、このことがきっと次の日作文に書かせられると話題になる。クラスでー番勉強熱心な生徒の王福がこう言い出した。先生、作文のお題を決めてくれたら今日のうちに書けるよ、絶対うつしたりしないよ。このことをめぐって彼と王福は賭けをする。王福が勝ったら、先生の辞書を上げることを約束した。辞書は滅多に手に入らず皆にとって宝物であった。次の日、竹切りを終えた彼は自分の勝ちを宣言する。実は彼は父親と昨日の夕方から竹切りに行き、その日の夜中前に作文を書き終えていたのだった。

青年教員は彼に言った。あることを記録すると言うのは、常に事後のことであって、この道理は不変のものだ。でも君は頑張ったから辞書はやろう。しかし王福は自分の負けを知って、辞書を受け取らなかった。それ以後、彼は時間の許す限り辞書を書き写すことに熱中した。彼の一途さは青年教員には理解できなかった。彼は、辞書をやるから写すのはやめるよう説得するが王福は聞き入れない。そして、今にもっと大きな辞書を手に入れてそれも書き写すのだと言い張るだった。そんな折、この先生が教科書通り教えていないと言うことが党の上層部に伝わった。調査に来た幹部に問い質され、彼は教科書を書き写すのは無意味だと答える。だが、方針に逆らうことができなかった。彼は生産隊へと再び送り返されることになった。学校を立ち去る時に、彼は辞書を王福に残し、こう書き記すのだ。王福、これからは何も写すな、辞書も写すな。宿舎の戸を押し開けると濃いもやが校舎を包み、あたりはひっそりと静まりかえっている。彼は小さな荷物を背負い山を降り、学校去っていった…とがっつり説明するとこんな感じで、赤土に見える道を強調とされており、いかに正しい道を歩むべきかと言う暗示的なものがある。この映画はタルコフスキーの置き土産である。東洋的タルコフスキーの原型が多少なりとも入っている。

本作は冒頭から非常に魅力的である事は後ほどガッツリと話すが、その序盤のシーンで、暗い小屋の中でーメートルもありそうな長のパイプで水タバコを吸っているのが書記である事は多分見ている観客はわからないと思う。つまり共産党支部書記であり、村のー番の権力者と言うことが最初に表されているのだ。この書記の右手外に観客には見えない主人公(青年教師)がいるのだが、画面には映らない。タバコー本投げられ、見えない主人公がそれを拾い、続いてマッチが投げられる。このお粗末な態度に非常に無礼だと観客思うかもしれないが、実はそうではなく、上部からあらたに、先生に任命された若いもんに敬意を表しているとのことだ。これは中国文学研究者の田畑氏が発信していた。それにしても何たる理不尽な世界だろうと思う。そもそも二十歳中頃の青年が高校一年まで行っていたと言う理由だけで、突然村の中学校の教師になる事になり、教科書も辞書もない教室で様々な困難に出くわしながら生徒たちに自己流の授業をするも、その行状を聞きつけた幹部の方針によって青年が突然教師を解雇されて、元の生産小隊へと帰還してしまうのだ。なんとも理不尽な時代である。映画の印象的な部分を言うとやはり音だろう。それも音楽も多少は流れるが、自然的な、環境音が重視されていた。例えば映像は竹を伐採している場面ではないにもかかわらず、竹を伐採するときの音が聞こえたり、炎が燃え上がる音、黒板のチョークの音、刀を鋭ぐ音、牛の首にかけられた鈴の音など様々である。今思えばデビュー作の「黄色い大地」では壮大なオーケストラが流れていたが、本作ではあえて逆に強い効果を出すために、音楽は減らされている。それが物静かな映像の中の美的センス(色彩、カメラワークである)を強調させることに成功している。特に溝口健二を彷仏とさせるパノラマ的光景が写し出される湖の朝霧のシーンは圧倒的だった。

それにしても、中国の南方の深緑の山山に囲まれた粗末な学校の外見はあまりにも原始的でひど過ぎる。中国が栄えているのはほんの中心部だけなのかと思わせられる。これは二十一世紀に入ってから中国映画を見てもそう感じるのだ。そもそも二〇〇八年に北京オリンピックが開催された時も、そういったお粗末な都市を見せないために巨大な壁が作られたと言う話がある。確か岩波ホールで映画化もされていたと思うが、そういうことをしてしまう共産党(半ば日本人からしたら考えられない事柄)の信じられない行動がこの作品でもうかがえる。クラスの黒板も落書きだらけで黒板消しがないため布のようなもので消してる分、チョークの白い粉が満面に塗られて黒板は半ば緑ではなく真っ白な状態の上に文字が描かれる始末である。そういった中でも輝かしい子供たちの瞳が印象的で、中学三年生の日本の子供たちの現在の有り様を見ると嘆き悲しむのは私だけでは無いはずだ。

無論この時代八〇終わりから九〇年代の日本の小学生たちは今とは違って携帯も持たず、アナログな生活をしていたかもしれないが、本作のような粗末な環境で授業しているところはなかったはずだ。そう考えるとこのような表情をする子供たちにほとんど会えなかっただろう当時の日本の小学校では。なのでこの作品は中学三年生並びに高校ー年生までしか学歴がない青年教師が出てくるため、高校ー年生の方などにもぜひとも見て欲しい。ところで、私は教育者ではないためよくわからないのだが、基本的に個性を持たせながら子供たちに接している学校と言う巨大な組織では、基本的には教育における管理の中で子供たちがカリキュラムを経ているが、今日的な意義を考えるならば、管理強化の方向をたどっていっている日本の学校教育の現状と言うのは良いものなのだろうか、それとも悪いものなのだろうか、私にはわからないが、少なからずこの作品では、そういった管理社会で学ぶものは何一つないと言っている。皮肉なことに、この作品が誕生してから数十年経った今の中国では全世界トップレベルで管理社会と化している。監督は虚しいだろう、苦しいだろうと思う。

これはまた後ほど話すことだが、監督が農村に送り込まれた舞台が本作になっているのだが、十六歳で北京を離れて志願した先で、ゴム園作りに加わり、木を切り倒し、火を放って山々を焼き払う作業の繰り返しの罪深き事柄が、この映画の終盤に赤裸々に現れている。かつて紅衛兵たちは、封建的な文化や外来文化を一掃するために、あらゆる寺等を破壊してきた。それが一九九六年の夏の事だった事は歴史に興味がある人なら知っていることだ。そういった毛沢東の示した新しい革命的な建設を半ば信じた多くの若者が都会を離れて農村に送り込まれていくと言う地獄絵図がこういった作品を作る監督の活力になったと言えるだろう。毛沢東と言う人物が言い放った言葉で、私が背筋を凍らせた漢字四文字がある。それは"不破不立"と言うものである。それは破壊しなければ建設できないと言う意味で、その言葉は社会への不満を敏感に感じていた若者たちの反乱に火をつけ、全国で既成権威の破壊が起きたとされているのだ。その混乱に生じて毛沢東は党内の政敵を一掃していったと言う歴史があり、個人独裁が誕生したのだ。

これは東京大学講師の刈間氏がいっていたことなのだが、中国では森林の運命こそ人間の運命だと、中国のルポルタージュ作家の言葉であり、政治的な動乱で社会が混乱し、人々が運命に翻弄される時、決まって中国の大地では大規模な自然破壊が繰り返されてきたと言っていたそうだ。それは五十八年の大躍進運動もそうだったし、六十六年から始まる文革の10年もしかり。そして、開放政策がインフレと政権の腐敗で行き詰まってしまった昨今も、また同じ悲劇が繰り返されようとしている。長江はもはや黄河だと言うのは笑えぬ冗談になっているとの事だ。さて、ここからは個人的に印象的だったシークエンスを話したいと思う。いゃ〜、冒頭の原始的な風景の色彩が変わる水墨画のような演出から魅了される。既に始まった瞬間にこの作品が傑作と思ってしまう自分がいた。そしてタイトルが映し出され、スタッフロールが流れる中、黒板をチョークで書く音が強調されていく。青年が村の学校まで行く道のりの圧倒的な自然と小動物の群など、霧がかかった森と幻想的な楽器の音色とともに、ロングショットもしくはクローズショットでとらえるシーンの数々は美しいの一言。それから青年が藁?かな、で出来たボロ家の窓のようにくりぬかれた場所で、両腕を置いて外を眺める真っ正面ショットがあるのだが、もはや絵画の印象を持つ。そして夜になっても勉強が続き、もちろん田舎で電気も(紙も足りてないため、生徒たちに教科書はない)通ってないので、皆机に蝋燭を置いて黒板を書き写しているのだが、それぞれの机に蝋燭が一本置いてあり、火が灯っていて、すごい幻想的であり、子供たちの表情を一人一人クローズアップさせたり、次のカットで子供たちが全員教室にいないショットを捉え、青年が一人蝋燭を吹き消す場面など印象に残る。

外で夕焼けに照らされながら、妙な踊りをする青年の固定ショットも美しく、そびえ立つ枯れ木がシルエットになっており異世界を見ているかのようだ。序盤の教室内での蝋燭を使ったファンタジーは凄い。そんで翌日のクラスの中で、辞書を読んで知識ある男子生徒が、青年教師に得た知識を言う場面があって、的を得ていたため青年がニコニコと笑うしかない場面の彼のクローズショットの笑顔がなんとも印象に残り素敵である。その後に、青年が一人赤く染まった(夕日)フレームの中の中心に立って引きに撮られているワンショットも印象的だわ。この映画張芸謀監督の「紅いコーリャン」の様に画面に自然が映る時は真っ赤になるシーンが多く、霧のかかった山々や木々は旧ソ連の映画を見ているかのような(タルコフスキー等)感覚に陥る。枯れ木の太樹を先端から徐々にカメラを下流していくシーンとか正にソレだ。そんで村で生徒と青年が作文について話しながら焚き火している霧のかかったロングショットの映像も美しい。

神秘主義の要素が入り込んでいる。それとほぼ終盤で、かなりえぐいシークエンスを作ったなと驚かされたのが、下放した仲間たちと教室で授業の真似事をする場面があるのだが、そこで昔、小山があったとさ…と言う歌を歌いながら授業をしている場面で、その大人の生徒たちが大声で怒鳴ったりして、主人公の青年教師は黒板の前で忠字舞の手振りまでやり始める場面は強烈だった。これは文革の時に指導者への忠誠を表すために語録や赤旗を手に踊っていた表現である。それを広々としている学校で、向こうの教室から生徒たちがそれを眺めていて、それの真似事をし始めて歌うように怒鳴りながら山を下っていってしまい、それをただぼう然と見ているだけの教師の表情はものすごい強烈なインパクトがあった。正直ショックであった。ここまで美しい映画なのに内容は残酷すぎるのだ。真っ赤な夕日、文革時代の美しい地方、藁葺き屋根の中学校がシンボリックにショットされ、風景は寄り添ってくれる。そのクラスの中で、この文字がわからない子はいないかと質問し、大勢の子供たちが黒板に線を引きに行く場面は、彼のその質問がなければ果たして子供たちはただノートに書き写しているだけで、理解していなかったのではないかと思わせられるシーンは強烈で、生徒たちと教員が徐々に交流をし始め、学問を目指していくストーリー性は非常に良い。

それにしても黒板にただ文字を書いてそれを子供たちがノートに書き写すだけと言う教育方針に疑問を抱いた青年が真っ当と言うわけではなく、それは誰しも思う当たり前のことだが、中国ではそうではないんだなと思わされた。それが教科書を捨てる決心となった青年の動機である。印象的なシーンをまだ言うと、あの湖を三六〇度カメラが回るショットも圧倒的である。こんな広大な青みがかった自然と霧が強調される幻想的なシーンは一度見たらなかなか忘れられない。にしても何千年にもわたって維持されてきた生態系を一瞬にして断ち切ってしまう野焼きの横暴さを際立たせるクー・チャンウェイのカメラは素晴らしかった。監督が実際に下放されていた雲南省で行われている撮影だが、大自然が圧倒的で、クライマックスの真っ赤な野焼きのシークエンスは驚く。この作品は非常に暖色系と寒色系の二種類のカラーでそれぞれ表現されている。それは監督の独自の意味をもたらし、人間文化の善と悪をそれぞれに映し出しているかのようだ。とにかくこの作品はワンシーン・ワンショットが魅力的で、目まぐるしく動くダイナミックなカメラが素晴らしかった。そして私が非常に感動したシーンの一つに、中盤あたりで牛を索いて歩く見知らぬ少年が出てくるのだが、これが終盤で追放された青年教師と再度出くわすシーンで、青年が子供たちに話していた後にしょんべんをかけると言う過去の話が、その場でその少年が牛ではないが、しょんべんを外でしているシーンを見て、ぼーっと立ち尽くしている青年を見た時に、きっとそれは青年の分身であり、この小さな挿話が大事なポイントを押さえているのが非常に良かった。

この映画に出てくる生徒たちは果たしてどういったことを悟ったのか、どういったものを学んだのか、青年教師はこの少しばかりの村のクラスに赴任してきて、何を学び何を持って帰還するのか、漢字を通して文化的自己同一性を保ち続けてきた中国文明の原理がどういったものなのか、今も続く中国共産党の支配に苦しめられている農村地帯の少数民族を始め、中国が社会主義国家として解いてきた理想的人間観と完全に対立している映画を静謐の中で取り上げた監督に拍手を送りたい。少なからず青年教師と王福(生徒の中の主人公的存在の男子生徒)との会話だったり、いくつか散りばめられたエピソードの中にあるユーモラスなイメージの中に、儒教的な教育から脱落した個人と自然との交感が独自に作り上げられている事ははっきりと分かった。この映画は決して政治劇ではなく単純明快な作品でもない。

人類学的な文脈で普遍的な立場が描かれており、見れば見るほど深い作品なのである。毛沢東が残した負の遺産、それを異議申し立てとして監督は叩きつけた。正に彼の渾身の力作だろう。そして、次回作の「人生は琴の弦のように」(VHSしかないが大傑作)で、我々に訴えかけた共産党の盲目を伝えた傑作が待機していたこの時期(一九八九年前後)から陳凱歌(チェン・カイコー)は、連続して文化大革命を批判した作品を撮り続けていた。そういえば少し気になったのが、あの黒板に"上学"と書いてある場面を長回しして捉えているのは何か意味があったのだろうか…。因みに牛と水を合体させた漢字は無いそうである。長々とレビューしたが、私は最後に言いたい。文化大革命はもはや歴史の彼方なのだろうかと。発展していく中国、オリンピックも成し遂げ、GDPも世界第二位となり、しかしながら、そのちょっと前では、街を出れば、赤い腕章を腕に巻いていた若者たちいわゆる紅衛兵たちがいた時代があった。それらを描いた監督のパルムドールに輝いた「さらば、わが愛/覇王別姫」しかり、これらの作品を見て、どういった受け止めをしているのかぜひとも紅衛兵らに聞いてみたいものだ。
Jeffrey

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