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アレクサンダー大王のkaomatsuのレビュー・感想・評価

アレクサンダー大王(1980年製作の映画)
4.0
昔、我こそはロビン・フッドの生まれ変わりだと本気で信じて、常に弓矢を持ち歩き、文明に背を向けて密かに森で暮らす男のドキュメンタリー番組を観たことがある。偉大なる者に自己を投影して生きる人間というのは、なぜこうも狂信的なのだろう、と半ば呆れながら思ったものだが、この映画の主人公「アレクサンダー大王」もまた、そんな狂信的人物だ。アレクサンダー大王といえば、紀元前のマケドニアが生んだ大英雄アレクサンドロス3世を指すが、本作の「アレクサンダー大王」は真っ赤なニセモノで、ギリシャの村の単なる一盗賊だ。ある狭いコミューンで権威を振りかざす、この得体の知れないニセモノ大王の滑稽な暴君ぶりを通して、共産主義や独裁制が横行した20世紀のイデオロギーを寓話的に総括しようという、途方もなく深淵な映画的試み。しかも、ほとんどセリフなし、説明的な演出もなし、遠巻きに映し出される人々のフィジカルな動きと、象徴的な映像のみで読み取れというのだから、テオ・アンゲロプロスはとんでもない課題を遺してくれたものだ。

本作の舞台はギリシャのとある村落。20世紀のギリシャ史も絡んでくる上に、抽象化され、デフォルメされた人物造形や村社会をみるにつけ、何の予備知識もなかった私は、1度目の鑑賞のとき、なんかヘンな村でヘンな儀式をやっていて、ちっこい体に鎧を着けたヘンな酋長みたいなのが出てきて、ヘンな村民たちに崇められていて、その酋長が民衆の前で痙攣ばかり起こして、土地の私有・共有について村民がもめていて…奇妙な原始共産社会でも描いているのかと(あながち間違いではなかったけど)、もう何が何だかさっぱり。多くの映画書に頼って理解を深めるしかなかった。ただ、唯一無二の映像美による陶酔感と、こりゃ何だかトンデモな雰囲気だな、という感触だけは、初回からビシバシ。1900年元旦、刑務所から脱獄し、用意された白馬にまたがって颯爽と登場するニセモノ大王を映し出す、光と影を効果的に使ったオープニングの美しさ。そして、360度パンニングやワンショット・ワンシークエンスなどを用いた、アンゲロプロスの映像マジックにかかったのか、まがいものの大王がやけに神々しく感じ、その不穏な一挙手一投足に、なぜか目が離せなくなってしまった。

「アレクサンダー大王」を演じたオメロ・アントヌッティは、タヴィアーニ兄弟監督『父 バードレ・パドローネ』や、ヴィクトル・エリセ監督『エル・スール』の父親役が殊に印象的な、大好きなイタリア人俳優だ。しかしこの作品では、その味わい深い、名優然とした演技は一切させてもらえず、常に重たい鎧を身に着け、終始そのいびつな動きを遠くから撮影されるだけ。実際に本作を鑑賞しても、最後までオメロさんご本人だとは分からない。オメロさんは相当なストレスだったそうだが、その忍耐のおかげで、映画史上類を見ない、異様なアイコンが誕生したわけで…。

この作品のリアルな怖さは、暴君による圧政やその功罪を暴くことよりも、そんな為政者に一時のカリスマ性を見出してしまう民衆の、あやふやな認識力を問題にしている点にある。熱狂的にカリスマを支持したかと思いきや、あるきっかけでその熱から醒めるや否や、今までがウソだったかのようにあっけなくポイ捨てするという、実にご都合主義的な民衆(有権者)の集団心理こそが、ひいては社会の悲劇を生むという、鋭すぎる視点。これを映像のメタファーで淡々と見せる。有権者としての自分自身に直接跳ね返ってくる、末恐ろしい映画だ、ということが少しずつ分かってきて、あ~怖っ。
(あるフォロワーさんのレビューで、1月24日がテオ・アンゲロプロスの命日だと気付き、大幅にリライトして再投稿)
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