うべどうろ

彼女について私が知っている二、三の事柄のうべどうろのレビュー・感想・評価

2.0
 僕の中で、ゴダール作品群に一つの境界線を引くとすれば、きっとこの作品にする。この作品で、ゴダールは「映像」を信じることができなくなって、「言葉」に頼ることもできなくなって、彼の「哲学」だけが先走り始めてしまうから。「男性・女性」にもその萌芽はあるのだけれども、あの作品はすんでのところで「映画」として「映像作品」としての完成度を特異点的に保っているのだと思う。それは音楽と映像の連関や、役者を信じ言葉を託すという行為に現れている。
 しかし、この作品では、一人として「キャラクター」が登場しない。主人公の女性であっても、それは「話す機械」としての役割のみを与えられ、あらゆる彼女自身の「意思」が剥奪されている。その証拠に、ゴダールはナレーションをもって、彼女たちの哲学を補足する欲求に抗えず、とうとう「彼女の表情は何かを語っている」などという世迷いごとまで語り出してしまうのだ。これが映画と言われるはずがない。僕は強くそう主張したい。
 現に、ゴダールはこの作品を制作した翌年に商業映画からの卒業を表明し、自らを映画作家から哲学者へと変身させる。その後、映画監督としての彼が復活するためには、二十年近くも要してしまうのだから。
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