小一郎

ミンボーの女の小一郎のレビュー・感想・評価

ミンボーの女(1992年製作の映画)
3.4
最近、本物のヤクザの日常を密着取材した『ヤクザと憲法』という映画を見て、過去話題になった本作を見てみようと思い立った。

完全な悪として描かれるヤクザに対し、民事介入暴力(民暴)を専門とする女弁護士・ミンボーの女が立ち向かう。そしてヤクザにやられっぱなしだったホテルマン達が、ミンボーの女の薫陶を受けて強くなり、ヤクザに毅然とした態度で応じるようになる。

社会の闇に光をあて、コメディタッチで描く故・伊丹十三監督ならではの作品。ドキドキするテーマだし、エンターテインメントとして面白くできている。

劇中に登場するヤクザは、暴力によって人間の尊厳を脅かす許し難い存在だ。これが本当の姿なのだろうか?と疑問に思うと同時に、もし本当の姿だとして、もし、自分が被害にあったら、どういう気持ちになるだろうか、と考えた。とても難しい問題だ。

そもそも、ヤクザになる人をなくすことはできないのだろうか。かつて読んだ岸田秀著の『二十世紀を精神分析する』の中の「暴力団と神経症の症状」と題した文章に以下のように書いてある。

<個人の自我はある規範に基づいて成り立っており、その規範に合わない心的要素は自我から排除され、無意識へと追いやられている。それらの無意識的要素が自我に反抗して出てくるのが神経症の症状である。社会もある規範にもとづいて成り立っている。したがって、その規範に合わない(合わせたくないか、合わせることができないか)人たちが一定数は不可逆的に存在する。その人たちをどう扱うかが問題である。>

<人間が存在するためには収入と自尊心が必要である。暴力団の問題は、彼らが社会の秩序にとってできるかぎり破壊的ではなく、一般市民にできるかぎり迷惑でない形で彼らが収入を得、自尊心を保つ方法があるかどうか、あるとすればどういう方法かという問題である。>

暴対法や暴排条例によって、ヤクザに対する社会の目が厳しさを増している。暴力によって一般人の尊厳を脅かしていた(いる?)ヤクザ。今度はヤクザが人間の尊厳を脅かされているようなことはないだろうか。「憎しみが憎しみを生む構図」になっていないだろうか。本作のラストのシークエンスを見ると、やや心配になる。