さわだにわか

月光ノ仮面のさわだにわかのネタバレレビュー・内容・結末

月光ノ仮面(2011年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

『ジョーカー』を観てなんとなく頭に浮かんだので備忘録的に。

このなんだか掴みどころのない物語をどう捉えるかというのはたぶん復員直後の板尾が幽霊のようにふらふらと高座に上がる場面で、その姿に大笑いする観客を眺める時の板尾の目に何を見出すか、ということなんだと思ってる。

個人的には殺意。最近『火花』(板尾監督版)を観てほぼ確信しましたが、復員兵板尾はこんなボロボロの自分を見て笑う客たちになにか芸人として生き直す希望を見つけたのではなく、ただ彼らがどうしようもなく憎くなった。

で、こう考えてみるとこれは不条理劇ではあるけれどもわけがわからないという類の物語ではなくて、一本筋の通った物語としてわりとスッキリ理解できます。つまり、オープニングを見れば誰でも分かるようにそのまんま復員兵の寓話というわけです。

板尾が高座で披露する芸(?)といえば日本刀を振り回すとかツルハシで穴を掘ろうとするぐらいでしかない。言うまでもなく前線兵士のパロディですが、それは板尾がトラウマ的な戦場経験を客前で再現することでもあった。自分の過酷な経験を理解してもらいたかったのかもしれない。しかし客はそれを見て笑うだけ。板尾は薄ら笑いは浮かべているけれども少しも笑ったりはしない。

板尾が遊女と穴を掘るのは何故か、その先にタイムトラベラーのドクター中松がいるのは何故か。これは板尾と浅野忠信が命を削りながら(どこだか知りませんが)地下壕を掘らされていたからでしょう。敗色濃厚な戦況にあってひたすら地下壕を掘り洞窟戦を戦うことの(勝利に与するという意味では)無意味を兵士はどのように自分に納得させられるのか、と考えるとそれは掘った先に未来への出口があると思い込むことだったのではないか。

ドクター中松はともかく、板尾だけではなく身売りされた遊女も一緒に穴を掘るというのもそう思えば腑に落ちるところです。彼女は穴を掘る前に泣いていた。その境遇から抜け出したかったから穴を掘るわけです。

ではなぜ粗忽長屋をモチーフにしたのか。一つは終戦直後の混乱、死んだと思った身内がひょっこり帰ってきた、という時代の曖昧さの表現として。もう一つは過酷な戦争体験で大岡昇平の如くPTSDの様相を呈した復員兵の生きているが生の実感がない、今も戦場にいるようで半分は死んだような気がしている、という精神状態を表現するため。
この二点から例の「するってぇと、俺はいったい誰なんだ?」を解釈すると、板尾と浅野が二人揃って高座を後にするところでこの台詞が語られることに必然性が出てくるわけです。

戦場で自分の中の何かが死んでしまった二人かもしくは一人の兵士が、一時は高座に居場所を見出したかに見えたが、そこは彼(ら)の居場所ではなかった。彼らに帰る場所は残されていなかった。彼らを理解する人間もいなかった。だから新しい生を歩むこともできなかった。そして彼らは町を去った。
寄席の虐殺が現実かどうかは定かではないし、そもそも毎夜満月の昇る町が実在するのかどうかもわからない。もしかするとすべて地下壕の中で板尾か浅野が見た夢でしかなかったのかもしれない。しかし寓話なので重要なのは現実かどうかではなく、その情念と悲哀なんでしょう。

板尾の長女がこの映画の公開される二年前(ということは撮影はそのすぐ後だ)に亡くなっている、ということは前提知識としてもう少し知られても良い。そのことがこの映画の輪郭を形作っているように思えたので。
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