三四郎

子供の眼の三四郎のレビュー・感想・評価

子供の眼(1956年製作の映画)
3.5
ダブル高峰主演の超豪華映画だが、内容はいつもの大船調で家族と結婚がテーマ。
しかし、タイトルにあるように「子供の眼」を通して、家族と結婚を見つめている。
ストーリーだけを追うと平凡かもしれないが、子供から見た「家族」と「結婚」を実は非常に上手く捉えている。

大人になるにつれて子供の頃に思っていたこと、考えていたことが分からなくなる。大人になるにつれて「自分は成長した」と思い込み、「子供と大人は違う」となぜか信じて疑わなくなるが、子供も大人と同じなのだ。子供も大人と同じように、いや実は大人以上に繊細で、人の心の動きに敏感で表情を読み取り察するものなのだ。
なぜ、人は大人になるにつれて、そのことを忘れてしまうのだろうか。
そういう点で、この映画は、秀逸に「子供の眼」つまり、周囲の大人たちに対する子供の心の動きを、時には「遠慮」「察し」によって、またある時には子供の特権である「感情の爆発」といった形で表している。

この作品は、1956年のゴールデン・グローブ賞(アメリカ)外国語映画賞を受賞しているが、哀しい哉、日本では全く評価を受けていない。キネマ旬報ベストテンの30位以内にも入ってはいないのではないか?
しかし、それも分からなくはない。
この映画の脚本はもしかすると傑作だったかもしれない。
タイトルが『子供の眼』故に子供の眼で描こうとしている監督の努力は認める。
ただ、視点を「子供の眼」だけにせず、それぞれの大人たちの視点も入れているので映画にまとまりがなくなってしまっている。
「子供の眼」に全てを委ねればよかったのだが、惜しい哉、監督は「子供の眼」を忘れてしまった「大人」だったのだろう。「子供の眼」を信じきることができなかったと言える。

しかし、ラストは素晴らしかった。
義母と父親が仲直りし、オサムを呼ぶ。しかし、玄関で、二人の話を聞いていたはずのオサムは、黙って玄関を出て行く。両親の仲直りに安心しつつ、自分の居場所はここにはないと察したのだろう。
そして、玄関前でフィアンセと女友達と話しているであろう大好きな叔母のところへ行こうとするが、3人は連れ立って道の向こうへ行ってしまっている。オサムの眼には遠くに行ってしまった3人の後ろ姿しか見えない。皆、自分から離れて行ってしまったように見える。今まで自分が独占していた父も叔母も自分から離れていく淋しさ。
行き場を失ったオサムは一人野原に行き、星を見あげている。その時、遠くから「オサムー!」と呼ぶ父親の声がし、その声がだんだん近づいてくる。振り返ったオサムの眼にはいっぱいの涙が溢れている。オサムは星を見上げ泣いていたのだ。そして、涙の中から嬉しそうな満面の笑みを見せ終幕。
子供は子供ながらに皆が幸せになるのを願っており、皆が幸せになるその代償としての孤独を感じている。

ひとつこのラストシーンで気になったのは、「オサムー!」と探しに来た声が父親だけだったということ。「オサムちゃーん」と義母の声も聞こえるだろうと予測していた私には意外だった。もし私が監督なら、義母の声も入れて、両親がオサムを探しに来たという終幕にするのだが…。しかし、オサムにとっては血の繋がっている父親だけが自分を探しに来たという方が嬉しいのかもしれない。自分は孤独ではないと思えるのかもしれない。

その他、印象的だった場面。
デコちゃんが犬を捨てに行ったが…可哀想になり連れて帰る。そしたら二匹に増えている笑 こうしたクスッとする演出が優しくて呑気で良い。デコちゃんの表情もいい。

東京から名古屋への転勤が決まり、父親が一足先に名古屋へ行く朝、オサムに「学校もかわって今の友達とも会えなくなる」といったようなことを言うが、
「子供は大人の行くところに行くんだ」と、オサムが言う。子供は自分に決定権がないことを大人が考えている以上にわかっているものなのだ。

お見合いで知り合ったデコちゃんと大木実が、第三者により、お互い誤解したまま破断になりかけていて、コーヒーを注文するが、すぐに誤解が解け、両想いであることが判明する。すると、おしるこに注文変更。苦い話には苦いもの、甘い話に変わると甘いもの、二人の気持ちが溶け合ったから甘いもの、という演出は良かった。

高峰三枝子は何を演じても高峰三枝子。高貴なお嬢様然としていれば、もうそれだけで十分。歯科医姿も見れて満足。
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