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クレーヴの奥方のharunomaのレビュー・感想・評価

クレーヴの奥方(1999年製作の映画)
5.0
振り向き、眼差しの邂逅を通過するだけで、なぜここまでいいと思えるのか、畢竟、それが演出における実感であり、デクパージュもそうだが、眼差しを捉えたということがそのカットのOKの基準でしかない。そしてまた身振りの、発話のリズムも内的宇宙における音を形成する。瞳の輝きと誰かは呼んでいたが、そう、光る瞳、反射する眼差し。オーディオヴィジュアルは、尽く断片化され、編集の中でポリフォニーとなる。情動が運命を肯定するがゆえに運動は生まれる。Every picture has a certain rhythm which only one man can give it. That man is the director. He has to be like the captain of a ship. Fritz Lang
映画監督に必要なのはリズムなんだ(フリッツ・ラング)そしてまた、小津安二郎と同様にあるのは、人間は立派であるということ。オリヴェイラの映画に映し出される人物たちは、いつでも、古代か初期キリスト教徒のように(あくまでも現代に生きる)、果てしなく深く、悠然と素晴らしく、サスペンスフルなまでに本当の人間讃歌に満ちている。冒頭のマリア・ジョアン・ピレシュの演奏中に繰り広げられる視線劇は、小津の『晩春』の能楽堂を反復する。ゴダールは、本当の切り返しは、あるいは、話している主体やフォーカスすべき主体ではなく、それに応答する人物を撮ることにおいて現すことができるんだ、と言うようなことを以前どこかで言っていたが、まさにその手本のようなショットが散見された、主人公のキアラ・マストロヤンニの顔ではなく、その顔を見つめ、話しかける人物にフォーカスを当て、マストロヤンニは後ろ姿の暗い髪の毛だけが見える。
手すりや椅子に両の手を置くようなマストロヤンニの情念定型が幾度も現れては、その不安定な身体のラインと意思によって観客を魅する。サイレント映画並みの挿入字幕(インタータイトル)が事態の推移も人間関係も高速で積み上げられ、シーンは連作のタペストリーを見るかのように麗しく壮観な場面が続く。
修道女姿のレオノール・シルヴェイラには眼福であるし、教会の中庭の回廊でのマストロヤンニと喪に服す親友たち二人の抱擁は、ポントルモの『聖母訪問』のように手を取り合い見つめう形で、そのまま彼女たちの衣服を揺らす風は吹き、室内ではブレッソンのジャンセニスムへ移行する。告白。結婚について、真実の愛について。画面が俳優の身振りと視線によって繋がれる、あるいは断絶されるという事態に、私たちはオリヴェイラの映画によって初めて気づかされると言ってよい。マリア・ジョアン・ピレシュもサングラスも、それにしてもため息の出るほど豪奢でいて軽やかで蕩然、静謐な映画だ。真実としか言いようもない、魂における姦通小説、不貞もまた生と死に関わる一つの政治である(「この想い、叶うことなかれ」)
ブレッソン、ペドロ・コスタからオリヴェイラへ、撮影のエマニュエル・マシュエルも最高(クロースアップの切り返し時も、ヘッドルームの余白がちゃんとあり気持ちがよい)。『そして僕は恋をする』のキアラ・マストロヤンニの微笑みも畏怖な表情も素晴らしい。恍惚にも似て天を仰ぎ見る(『岸辺の旅』)。全ショットほぼ完璧に素晴らしい。あらゆる人物たちがよい。オリヴェイラの中でも未見だったが、かなりの上位にランクしてしまいそう。真理は創出的方法によってしか発見できない。ゆえに真理の探究において創出された方法に頼ることは不可能であり、創出された方法を論じるほかない所詮イメージされた形式主義と呼ばれるアーティストのような若手作家たちとは違い、オリヴェイラの方法は、そのたびごとにただ一つ創出的に映画を唯物論的に作り変えていくこと。革命前夜の弔鐘は官能的な響きへとその予型をうつ。曇天オンリーなのが少し悲しい。途方もない外部を残して、船は行く。シルヴェイラ、あの船に乗ったのは誰なのだろう?ラスト手前まで来て、これはオリヴェイラ版の『罪の天使たち』なのかと思うのも束の間。

映画の原題は手紙。
『家宝』『ブロンド少女は過激に美しく』そのまま続く『永遠の語らい』を想起した。
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