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ガンジーのKのレビュー・感想・評価

ガンジー(1982年製作の映画)
3.9
ガンディーは南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮し、「非暴力、不服従」を提唱した。
18歳でロンドンに渡り、インナー・テンプル法曹院に入学し、法廷弁護士となるために勉強し、卒業後イギリス領南アフリカ連邦で弁護士として開業。しかし、白人優位の人種差別政策下で強烈な人種差別を体験したことで、イギリス領南アフリカ連邦の人種差別政策に反対し、インド系移民の法的権利を擁護する活動に従事するようになる。
1914年に第一次世界大戦が起こると、イギリスは将来の自治を約束して、植民地統治下のインド人に協力を求めた。ガンディーはこの約束を信じ、インド人へイギリス植民地軍への志願を呼びかける運動を行ったが、戦争がイギリスの勝利に終わっても、自治の拡大は、インド人が期待したほどの速度では進行しなかった。
第一次世界大戦後は、独立運動をするインド国民会議に加わり、不服従運動で世界的に知られるようになる。またイギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行った。
ガンディーは、カースト制度を職業の分担という観点から肯定的にとらえ、生涯を通して、「不可触民」制度を撤廃する活動に精力的に励んだもののカースト制度そのものの制度廃止には賛成しなかった。
1945年9月に第二次世界大戦が終結しイギリスは戦勝国となったが、日本やドイツとの戦いで国力は衰退し、もはや、本国から遠く離れている上に独立運動が根強く続けられてきたインドを、植民地として支配していくことは困難であった。
1947年8月15日にデリーにてジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立した。
ガンディーの「ヒンズーとイスラームが融合したインド」との思い通りにはいかず、最終的にイスラーム教国家のパキスタンとの分離独立となった。
1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ヒンドゥー原理主義者からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視され、1948年1月30日、ヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人ナートゥーラーム・ゴードセーらによって暗殺された。
インドを植民地として支配したイギリスが、インド人民が団結して植民地支配に反対することができないよう、宗教間やカースト間の違いを強調して対立をあおる「分割統治」の政策を行ったことが大きな要因となり、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立は1947年の植民地からの独立時に、もともと一体であったインドが宗教の違いによって 2つの国家となるインド・パキスタン分離独立という事態となった。建国後の両国は厳しく対立し3次にわたる印パ戦争を起こしている。またインド国内でもヒンドゥー至上主義者が扇動した暴動事件やイスラム教過激派によるテロ事件がしばしば発生している。
ピュアに、謙虚に、差別への反対とインドの独立を訴えたガンディーも、それを支持したインドの人々も、素晴らしい。ガンディーの半生がよく分かる。そして、1つの国家が分断され争い合う構造が、帝国主義の名残として、多くの人の命を奪ったことも。
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