きょんちゃみ

ガンジーのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

ガンジー(1982年製作の映画)
4.5
【ガンジーから日本人へ】
「私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人は、「アジア人のアジア」という崇高な希望を持っていました。しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。[…]世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。[…]あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない、ただ剣(つるぎ)にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが、大きな誤解でありますように。[…]あなたがたの友、ガンジーより。」
(1942年、ガンジーの公開状「すべての日本人に」より)


【ガンジーの樹木の比喩】
「ある人にとって真実と思われることが、他の人にとって虚偽に見えることがしばしばあります。しかし、そのことを思い悩む必要はありません。真摯な努力を重ねていけば、一見異なる真実に見えるものが、結局は、同じ樹木に繁茂する見かけの違った無数の木の葉のようなものであることが分かるでしょう。神ご自身が、人それぞれに、それぞれ違った相(すがた)で現れているのではないでしょうか。それでもなお、私たちは神はひとつであることを知っています。そこで、真理が神の正しい呼称となるのです。つまり「神は真理なり」というよりも、「真理は神なり」と言う方が、より的確です。人間が考え出した宗教が、人間は不完全であるのだから、どれもみな、不完全であるとすれば、宗教の優劣を比較するといった問題は起こりえません。どの宗教もみな、真理の啓示によって成り立ってはいますが、同時にみな不完全であり、過ちを免れえません。人間が不完全である以上、どうしても完全な真理を掴むことができないので、それに対するアプローチの違いがそれぞれの宗教の違いになっているに過ぎないのです。わたしたちの一挙手一投足は、真理をめぐって行われなければなりません。真理が私たちの生命の息吹きそのものでなければなりません。」(モーハンダース・ガラムチャンド・ガンディー(1869-1948)著『獄中からの手紙』森本達雄訳)


【ボーヴォワールからガンディーへの目線】
「他方で、ガンディーの責任は明白である。不安の中でネルーは、ガンジーが掻き立てた宗教的狂信を解き放つことになる、大惨事を予感していた。非暴力の思想に固執していたガンディーは、ヒンドゥーとイスラムの両共同体のただなかに、どんな暴力がくすぶっていたのかということを見抜くことができなかった。彼は、現実よりも原則を、そして目的よりも手段を、より重視したのである。そしてその結果は、彼の生涯の事業に反したのである。人間にとって、自分の活動がまさに成就するそのときに、それが根底から歪められ変質するのを見ることほど、悲劇的な境涯はほとんどない。」

“La responsabilité de Gandhi est au contraire évidente : Nehru avait pressenti dans l’angoisse la catastrophe qui allait déchaîner les fanatismes religieux que Gandhi attisait. Buté sur l’idée de non-violence, celui-ci n’a pas su voir quelle violence couvait au sein des deux communautés. Il a préféré le principe à la réalité, le moyen à la fin : et le résultat a contredit l’entreprise de toute sa vie. Il y a peu de sorts plus tragiques pour un homme que de voir son action radicalement pervertie au moment où elle s’accomplit.”

(La Vieillesse, Simone de Beauvoir, première parution en 1970, Collection Folio essais, n° 654, Gallimard)
きょんちゃみ

きょんちゃみ