もっちゃん

少年と自転車のもっちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

少年と自転車(2011年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

これまた傑作。ダルデンヌ兄弟素晴らしい。

ネグレクト(育児放棄)によって父親から見捨てられた少年の物語。子供の危うさ、か弱さはどうしようもないもので、常にアイデンティティの危機に陥っている。そんな少年が自らのよりどころを見つける冒険を描いているともいえる。

父親に見捨てられた少年は新たな里親を探す。それはホームという児童養護施設を抜けるためであるが、それによってサマンサという里親を得ることになる。そのため少年にとって彼女ははじめ施設を抜け出すための「ツール」でしかなかったのである。

彼女の助けもあって少年は自分の父親が住んでいる場所を探して当て、訪問する。しかし、父親はあからさまに訝しがり、「もう来ないでくれ」と告げる(しかもはじめ、サマンサに代わりに言わせようとするほどの体たらくである)。少年はここで最大の拠り所であった親の存在を失い、アイデンティティを喪失する(その後車内で自傷行為に走る)。ここから彼の新たな(アイデンティティ模索の)旅が始まる。

少年にとっての「自転車」とはいったい何を表しているのだろうか。彼はどこに出かけるときも自転車と一緒である。自転車は彼にとっての宝物である(もっといえば自転車こそが彼のアイデンティティの拠り所であるかもしれない)。そして彼は自転車がなければ、どこに行くこともできない。あの町、小さな世界でしか生きることができないのが子供という生き物なのである。

だから少年はいつも何かから逃げている。少年が駆けて逃げる描写が今作の大半であるが、少年は逃避行の末にアイデンティティを獲得しようと躍起になっているのである。そんな彼にとってやはり自転車は不可欠な存在であり、相棒である。だから自転車が盗まれるたびに彼は必死に取り返そうとする。それは自転車が彼の父親の唯一の形見であるからではなく、それがなければ「逃げる」ことができないからである。ふつうの子供ならまだしも「帰るべき場所」がない少年にとってはそれは死活問題である。

そのため「自転車」は非常にシンボリックなものとして作中で描かれている。そう考えるならば、ラストでサマンサと和解した少年が二人でツーリングサイクルをするシーンで行われる「自転車の交換」は何とも比喩的である。それまで何としても人に自転車を譲ろうとしなかった少年が和解によって、いとも簡単に自転車を交換するのである。それは単純な意味以上に、「アイデンティティの拠り所の発見」を意味する。

それは最後の強烈なシークエンスによっても象徴される。少年によって暴行された親子に復讐され、逃亡した少年は投石によって木から落下する(このシーンが中盤の自転車泥棒のシーンと構図的にかぶっている点も見逃せない)。あわや息絶えたかと思った少年はサマンサからの着信音の後、静かに起き上がる。ほとんど無意識的に彼は何事もなかったかのように自転車にまたがり帰宅する。非行少年とのシーンでサマンサの着信を拒否した場面とは対比的に、彼は律儀に葛藤することなく「帰るべき場所」に帰るのである。それはもはや”里親ー里子”という関係を超えて、まさに”親ー子”の関係ではなかろうか。