タマル

酔いどれ天使のタマルのレビュー・感想・評価

酔いどれ天使(1948年製作の映画)
3.6
1948年の作品だが、60年代高倉健的な任侠ファンタジーものへのアンチテーゼとなっている。完全なフィクションであるにも関わらず、その内容は原作ありの「仁義なき戦い」に類似している。

昭和残響伝は、愚連隊に襲われる露店を的屋集団である侠客が守るというシークエンスから始まる。やがて土地開発が進み、露店が必要なくなるにつれ、その守護神である的屋も必要なくなり、そのヘッドである健高倉は守るべき彼らに極道の道から足を洗うことを宣言するのである。
そこではヤクザは治安組織として描かれており、その存在の必然性が強調されている。そして、その必然性以外の、つまり利益追求を旨とする暴力団としての側面は排除されてしまっている。

ここで注目すべきは守られる市民の側である。昭和残響伝では、市民はヤクザと非常に親しい関係を結んでいるが、実際は彼らのように信頼関係の上で守られていたわけではない。法外なみかじめ料と「心づけ」によって雇用関係を結んでいたに過ぎず、場しのぎ的な冷たさを内に秘めていた。そういった酷薄な関係性を本作はよく表している。この「守られるものの残酷さ」は恐らく、後の『七人の侍』へと繋がるコンセプトだろう。70年代の映画『県警対組織暴力』では、的屋として彼らを迎え入れた当時の市民たちが時間の経過ともに潔癖に「任侠的な」ものを排除していく過程を哀愁をこめて描き出したが、本作を見るとそもそもその仁義や任侠という概念自体が、実はある程度自分たちの生活から「任侠的な」ものを排除しきった後に改めて作り出されたイデオロギーなのではないか、とも思えてくる。

これらの、実録ヤクザものにも本作にも共通するのは、極道の世界へと足を踏み入れてしまった若者への哀れみと、そうせざるを得なくした社会体制への怒りである。この回帰現象は、その映画が取られた時代背景の類似性によるものではないだろうか。「主戦場」ではないが、一つの歴史は何度も語られることによって時代時代で異なる姿を持って現前するのだということが、純フィクションであるヤクザ映画の系譜をとってみても確認できて面白い。
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